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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
     三 女性の御家人・名主
      職をもつ妻と代官の夫
 末武名相論は女の争いであったが、その背後にはそれぞれ夫がいた。中原氏女には夫の脇袋(瓜生)範継がついており、藤原氏女にも夫の二郎入道師総が控えていた。彼女らが名主職を獲得した場合実際に作人たちを支配するのはこの夫たちであり、そのことを早くから見抜いていた惣百姓は、範継は年貢未進の常習者であり、師総もまた何事かあればすぐに守護方へ訴え出て所を煩わす人物であるから、両人とも名主に補任しないようにと東寺に言上している(ぬ函七)。さらに両氏女は「敵人の咎を訴え申すこと」は「訴訟の習」であるとの理由でお互いの夫の悪事を暴露したため(ア函二〇)、相論は夫の非法をめぐる争いという性格も帯びるようになった。中原氏女は藤原氏女の夫の師総は国御家人小崎氏や松永保地頭の多伊良氏の「郎等」であって御家人ではなく、したがって非御家人師総のもとに嫁いだ藤原氏女は、たとえ御家人の家に生まれたとしても今は御家人ではないと、相手の夫に狙いを定めて攻撃している(京函一二)。このように末武名相論は女性のもつ職が権利それ自体として判定されず、次第に実質的な支配者である夫の非法や身分に重点を置く相論となっていった。
 先に預所東山女房の代官が彼女の兄弟の大蔵入道盛光であったことを述べたが、末武名もそうであったように、女性が職をもっている場合に兄弟や夫が代官となる例は少なくなかった。それは職や所領を有する者が負担しなければならない公事と関係しているものと考えられる。御家人名である末武名をもつ女性は、京都大番役などは夫を代官として負担しなければならなかった。百姓名についても十三世紀の初め、のちの勧心名の名主であった女性は、「女身たるの間」(女身であるので)公事を弟の勧心に負担させたと伝えられている(お函一)。鎌倉後期の仏経説話集『沙石集』(巻七―一一)には、無慈悲な夫を地頭に訴えて追放した妻が、男公事は許されて女公事のみ勤めたとされている。太良荘の時守が、預所代官大蔵入道盛光は「厨供給」(食事の提供)のために時守の妻女を徴発して「亭屋」に召し篭めたと非難しており、女公事の具体例を知ることができるが(な函二六五)、一般には夫役などの男公事は免除されることなく、男を代人に立てたのであろう。女性が代官や代人を立てなければならなかったところに御家人社会や荘園体制の公事負担の論理をみることができるが、その論理が女性を無力な者として職を奪うことはできなかったことに注目すべきであろう。



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