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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
     三 女性の御家人・名主
      孝養と相伝
 すでに述べたように、鎌倉中期から後期にかけて太良荘では末武名をめぐる長期の相論がおこった。この相論の大部分は中原氏女と藤原氏女のいわば女の闘いであった。相論は御家人であった雲厳の末武名名主職を継承するのはどちらであるかをめぐって争われ、中原氏女は祖父の時国が雲厳の養子になったと主張し、藤原氏女は父の宮河乗蓮が雲厳の養子となり、雲厳に「孝養」を尽くしたと申し立てた。時国・乗蓮ともに雲厳の養子になったというのであるが、これは末武名の相続の由緒が正しいことを示すためのものであって、両人ともに雲厳の家を継いだわけではない。雲厳は一人娘を隣郷の恒枝保公文の椙若康清に嫁がせており(ア函一六)、娘婿をとって家を存続させるという考えはなかったようである。勧心名においても歓心は自分の家の存続を図る手立てをとることなく、三人の「所従」に名を分与していることをみれば、まだ家の成立が未熟であり、家の財産である名田を支配しうるのは家督を継いだ者であるという観念はまだ確立していなかったと推定される。また乗蓮とその娘藤原氏女は、雲厳に「孝養」を尽くしたことをもって自分たちの権利が正当であることを主張している。この「孝養」とは老後を看取り、死後の弔いをすることを意味する。財産はそれをもっている人を「孝養」した人が相続する権利があると考えられていたのであり、財産は家に付属するというより個人に属するものとされていた。一般的にいって、家が形成され名田などの所領が家の財産であると考えられるようになると、家督を継ぐ嫡男が惣領としてその家産を単独で支配するようになり、女性は家産分与を一期分に制限され、さらには分与を受けることなく惣領や夫に養われる存在となる(二章三節五参照)。



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