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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    二 惣百姓の形成
      節養と報答
 次に、預所の乗る輿を舁がされるのは先例もなく堪えがたいとする荘民に対して、預所藤原氏女は荘に下向のときに百姓が人夫として荷物を持つのも輿を舁ぐのも同じことだとし、女性であるから荘の出入りに輿に乗るのは当然だとする。荘民が七代にわたり臣従を誓った定宴の孫娘として彼女は依然として荘民を下人のごとくみなしていたが、惣百姓たちはもはや下人のごとく扱われることに公然と異議を唱え始めたのである。ついで、預所直営田の耕作をしないとする荘民に対し預所は、この耕作は他の荘園と同様に預所が百姓に正月の節養(酒食のもてなし)をするのに対し百姓が「報答」として行なってきたものであり、本来はたとえ正月節養を受けなくとも百姓は預所の命に従って耕作すべきものであると反論している。ここには預所と百姓とが剥き出しの支配・従属関係にあるのではなく、預所の饗応と百姓の「報答」という互酬性を帯びることにより、そこに形成される一種の信頼関係にもとづいているのだという考えが前提にある。確かに地頭の横暴に苦しんでいた荘民たちの怒りを組織して幕府の法廷闘争にもち込んで勝利することは、定宴の力なくしては不可能であった。このとき荘民たちが定宴に寄せた信頼が七代に及ぶ臣従の誓いとなって表われたのであるが、今は荘民たちも惣百姓として成長し、また東寺供僧たちの力が強まって預所の権限が縮小しているなかで、年貢収納のみをこととする預所に対する荘民の信頼は失われていったのである。
 東寺供僧は預所の反論がなされた翌月に論争点となった六か条について、「先例」「相互半分の耕作」「和与」に従うべしとの簡単な裁決を下している(お函三)。預所と荘民との従来の歴史的な関係が崩れた段階で両者の力と力のぶつかりあいを避けるとすれば、あらかじめ紛争解決のルールを合意のもとに設定しておく必要があり、こうして新たな支配関係は多少とも「契約」的な性格を帯びざるをえなくなったのである。このように惣百姓の形成は領主と荘民の関係をも変化させつつあった。



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