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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    二 惣百姓の形成
      荘民の読み書きと計算能力
 永仁二年四月、先述した助国名の帰属などを含めて領家東寺と地頭との間に和与が成立した(ヒ函一六)。これを受けて東山女房の娘で預所となっていた藤原氏女は、近年預所が在荘せず使者を派遣して年貢を収納していたので荘民たちが年貢納入を怠るようになったとして、自ら在荘して支配にあたることになった。ところがこれに対して荘民たちは、正安元年(一二九九)二月に預所が行なった六か条の非法を挙げて東寺供僧に訴えている。初めはこれを無視していた預所もようやく翌二年三月になってこれらに反論を加えているが(『教王護国寺文書』一七一号、ア函三四)、その反論のなかでは次の点が注目される。まず現地で年貢の計算などにあたる散使(算使)について、荘民たちが散使役は「巡役の次第を守り」勤めてきたのだと主張したのに対し、預所は散使役は「器量」(能力)ある者を選ぶのが当然であると反論している。散使給田は建保五年(一二一七)の検注では二段が認められていたが(や函一〇)、建長の検注以後は認められなくなっていた。しかし荘民たちは既得権を主張して一段分の年貢を支払わず(れ函一)、「巡役の次第」すなわち荘民たちが決めた順番で散使役を果たし、この得分を得ていたのである。本来は年貢などの計算は特別な能力とみられていたのであるが、この段階ではそれがさほど特別なものとは考えられず、惣百姓内部の「巡役」として果たしうるものとなっていたのである。
 これと関連して、文永七年七月に末武名相論に関して百姓たちが仮名交じりの書状で自分たちの主張を述べるようになる(ぬ函七)。漢文体で書くことになっていた訴状についても、この正安の訴訟の少し前に時沢名主時守が「志」「天」「止」などの送り字を用いて預所代官の非法を訴える訴状を提出していることも注目される(な函二六五)。こうした例から考えて、鎌倉後期には百姓の読み書きと計算の能力が向上したことは疑いなく、そうした能力が惣百姓結合の成立と、散使「巡役」にみられるような惣百姓の自立性を支えていたのである。



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