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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    二 惣百姓の形成
      預所と惣百姓
 惣百姓の動向については、豊富な事例を提供している太良荘を例として述べたい。まず預所と荘民との関係の変化についてみておきたい。承久の乱後に地頭若狭忠清の横暴に苦しんでいた荘民たちは、領家の預所として荘に下ってきた定宴の指導のもとに地頭の非法を訴え、寛元元年に大きな勝利を収めた(本章三節三参照)。このとき荘民たちは歓喜のあまり、預所定宴に「七代に至り、不忠・不善を存ずべからず」という起請文を提出したという(ア函三四)。これは預所と荘民の間に文字どおりの主人と従属民の関係が生じたことを意味しないが、緩やかではあれ一種の主従関係に似たつながりが生まれたことが想定される。事実こののち三〇年間にわたって預所と荘民との間には領家である東寺供僧の評定の場で問題となるような特に深刻な対立はおこっていない。しかし定宴が老年を迎え、また彼に臣従を誓った古くからの有力三人百姓も死去したあとは徐々に様相が変化してきた。
 預所定宴は自分の子の静俊を代官として現地に下していたが、この静俊が荘民真利の名田を取り上げて自分の作田としたことから惣百姓の反発を招くようになり(は函一三七)、建治元年(一二七五)末には惣百姓によって排斥されるようになった(は函一四)。この対立は静俊が作田を返却することで収まったようであるが(『教王護国寺文書』一〇六号)、現地ではこれ以前に現地に下っていた定宴の子の盛光に定宴の年来の「下人」で綱丁に任じられていた成近が結びつき、荘民を煽動して静俊に抵抗しており、静俊と関係深い北山女房に悪口を吐いたとされる(は函一七)。これに対して静俊の「下人」である開善法師は、荘に預所代官として派遣されてきた定宴の娘の東山女房を政所から追い出すと公言し、逆に東山女房は北山女房の女童を呼び寄せて「北山女房は世にもあらすまじ」と静俊と北山女房への憎しみを語ったという(は函一三七)。まさに「父子姉妹の中(仲)不和に罷り成」るという預所一族の内紛がおこったのであり(は函一七)、預所職は東山女房(浄妙)が受け継ぐが、百姓に対する預所の権威は大きく失われていった。



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