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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    二 惣百姓の形成
      名主百姓の連帯
 鎌倉後期になると荘園・公領を単位とする百姓たちの集団的自立性が強まり、惣百姓としての活動が顕著となる。例えば三方郡御賀尾浦(三方町神子)が年貢などについて地頭に訴えるようになったことが確認されるのは永仁五年(一二九七)からであるが、浦の刀が百姓を代表して訴えた一例を除き(資8 大音正和家文書二九号)、ほかはすべて「百姓等」の訴えとなっている。また遠敷郡多烏浦の御堂は本来は浦を開発した秦成重らの建立した寺であったが、正応六年(一二九三)には浦の精神的結合の中心地となっており、この御堂内の空間配分をめぐって多烏浦と隣浦の汲部(釣姫)浦との百姓の激しい争いがおこっている(秦文書三三号)。
写真57 多烏天満宮(小浜市田烏)

写真57 多烏天満宮(小浜市田烏)

 鎌倉前期の寛元元年(一二四三)の六波羅裁許状によれば、遠敷郡太良荘の地頭代は「百姓の習い、一味なり」と述べており、結束して行動するのは古くからの百姓の特徴であった。しかし東国地頭の代官の述べたこの言葉の裏には、一騎討ちを習いとし自尊心の強い関東武士の目でみれば、自立性の弱い百姓はとかく付和雷同するものだという否定的な意味が込められているようにみえる(ほ函八)。しかし鎌倉後期の惣百姓は、太良荘地頭代のこのやや不当な評価を許さない内容をもって現われてくる。太良荘において惣百姓という表現の早い例としては、先述した弘安元年(一二七八)の勧心名相論において、相伝の名をゆえなく他人に与えることは「今日は人(他人の身)の上たりといえども、明日はまた(自分の)身の上たるものか」と述べて、預所の処置を非難した五人の名主の申状が「惣百姓申状」と称されていることが知られる(京函一五)。この言葉は名主たちが付和雷同的に共同しているのではなく、それぞれがこの問題を自分の身の上のこととして捉えたうえで生まれてくる自覚的な連帯感をもっていたことを示している。
 この惣百姓は、名田を「相伝知行」してきた名主たちの結合として形成されていた。名主は、名主職を拝領したならば誰を小百姓として耕作させてもその科なしと主張しているように、小百姓の耕作権を支配していたから(ル函一二)、この「相伝知行」を主張する惣百姓の連帯意識とは、まずは村落における特権層である名主の主張とみなければならない。この後も「太良庄御百姓」として訴状・注進状・起請文などに署名しているのはすべて名主であり(ゑ函一、お函七、ヱ函二三)、年貢請負も名主の名において行なわれているように(ヱ函三四)、惣百姓を対外的に代表するのは名主であった。ただし、十四世紀には名が一族などに分割されることにより、多くの名に二人の名主がいるようになったことが知られる。また名主が現地にいない末武名や、名主職をめぐって係争中の助国名では、耕地を下作する百姓が年貢未進の責任者として東寺に報告されており、これらの百姓のなかには名主以外の人も含まれていた(は函三五、『教王護国寺文書』二四〇号)。そうした百姓の一人である源八男は正応四年に自ら「百姓分の公田を相伝」し「下作」していたと述べており(ゑ函八)、村落の内部ではこうした百姓も惣百姓のうちに含められていったものと推定される。文永九年(一二七二)の遠敷郡汲部浦では製塩のための塩木山が均等な二四の名に分けられており、ここでも惣百姓はこうした名主で構成されていたことが推定される(秦文書一八号)。しかし、遠敷郡多烏浦において永仁四年の鎌倉夫用途の負担は表7のようになっており、一人分(一軒前)でない者も負担している(同三七号)。多烏浦の惣百姓が対外的には名主で構成されていたとしても、内部においてはそれ以外の百姓も村の構成員として位置づけられるようになっていたことを知ることができる。

表7 永仁4年遠敷郡田烏浦の鎌倉夫用途の負担状況

表7 永仁4年遠敷郡田烏浦の鎌倉夫用途の負担状況



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