これまでみてきた末武名・勧心名・助国名の相論は、復興さらには「徳政」という時代の大きな流れのなかで生じたものであり、元に戻るという意味ではこれらの相論は雲厳や勧心の人格や歴史と切り離しえない性格を帯びていた。しかし相論のなかで名主の地位が職の形を明確にしていくにつれて、過去の由緒よりも名が名主にとっては得分をもたらすものと位置づけられ、領家東寺にとっては年貢請負の単位であることがより強く自覚されることになった。いうまでもなく、こうした変化は職自体が生み出してきたものというより、次に述べる「惣百姓」の形成にみられるような、この時代になって明確になってきた荘園の人間関係あるいは集団間のあり方の変化にもとづくものである。