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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    一 名主職相論
      助国名相論
 助国名主の先祖の助国は寛喜年間(一二二九〜三二)に領家に身を召し篭められそうになって逃亡したが、その跡の名田は勧心・時沢・真利の三人百姓が分割して自分の名のなかに取り込んでおり、その後の東寺の検注はこれを追認する形をとっていたから、領家方の土地台帳から助国名は消滅していたのである(ヱ函四二)。末武名・勧心名の古い権利が復活するのをみた助国の子の国安は、弘安九年に助国名復活とその名主職補任を預所に求めて訴えをおこした。同年五月には国安に助国名主職が与えられたが(同前)、三人百姓の抗議を受けて六月には再び三人百姓に安堵された(ら函一)。そこで国安は翌十年には地頭の若狭忠兼のもとに訴え、名主職を安堵された(ヱ函四二)。この国安の行動は一見するとまことに常識をはずれたことのようにみえるが、地頭は領家東寺の検注とは別に、助国名を含む国衙領段階の土地台帳によって支配していたものと推定され(オ函五)、地頭によれば「重代の百姓」助国の名を潰した領家こそ「撫民の儀」に背いているのである。こうして領家方介入の絶好の口実を得た忠兼は、さっそく領家方に乱入し助国名の田地を奪うなどの乱妨を働く(な函三一)。こうして領家東寺と地頭の対立に発展したが、両者は永仁二年(一二九四)四月に和与し、助国名は領家方支配とされたので、同四年に三人百姓が百姓職に任じられた(ら函一)。しかしこれで引き下がるような国安ではなく、子の国友は正安二年(一三〇〇)には聖徳太子の時代に太良荘を「打開」いた先祖以来の系譜まで書き出して自分の由緒を飾っている(な函四九)。地頭の権力も先祖開発の大ほら話も通用しないとみた国友は今度は、永仁和与まで七年間助国名が地頭支配下にあったときに、三人百姓は新しく生まれた助国名の年貢額を東寺が正確に知らないことをいいことに六四石余も領家年貢をごまかして着服していると訴え、預所腹心の綱丁(年貢運送にあたる荘官)と結んで三人百姓から三五石余を取り立てて東寺に納入している(お函四)。正安四年(一三〇二)四月に国友は、二四貫文の補任料を納入すると供僧に約束して助国名主に補任される(ユ函一九、ヱ函四二)。これに対し、三人百姓は七月には東寺が領家の地位を一時的に失うという騒動のときに現地に下ってきた東寺の代官から安堵状を獲得しており(ゑ函二九)、この相論は泥沼に入り込んでしまった。しかしこのすぐあとに地頭若狭忠兼が改易され、荘の支配権が得宗に移ることにより助国名相論は東寺の手を離れる。
 この助国名相論は確かに助国跡の復活をめぐる相論ではあるが、勧心名相論のときには在地の秩序に対する預所の介入を批判した名主たちも、今度は訴えられる側になると、助国名分属は領家の検注によって定められたことで三人百姓の行なったことではないとして、領家の権威によって防衛しようとしている(ヱ函四二)。これに対する国安とその子孫は、当時の領家方荘民としての作法を全く問題としない型破りの行動をとっており、かつての古老を中心とした在地秩序などは歯牙にもかけていない。国友は三人百姓の年貢詐取を訴えて自分が実利をもたらす人物であることを供僧に売り込み、最後は補任料を支払うという利で釣って名主に補任されている(しかも、補任されると一三貫文は免除してほしいと起請文で願い出ている)。これに応じて、相論の裁決を加える東寺の供僧たちも利に動かされて補任と改易を繰り返す。



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