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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    一 名主職相論
      末武名相論の論点の変化
 末武名名主となりうるためには二つの条件があった。一つは「開発領主」雲厳がこの土地に対してもった権限を相伝によって引き継いでいることであって、百姓たちはいかなる意味でもこの権限を継承することはできなかった。もう一つはこの名の名主は御家人でなければならないという条件である。簡単にいえばこの名が本来もっていた性格が「元に戻る」(徳政)ことなのである。
 これに対して、文永十一年に供僧たちはこの名の歴史的由緒を切断して、快深に「新御恩」として補任する。これは論理としてはまことに荘園領主中心的なもので、国御家人や両氏女の反対を受けてあえなく破綻してしまう。しかし単純にかつての「由緒」に戻ったわけではなく、文永十一年二月の快深の請文提出の例は、同年七月の師総請文へと引き継がれ、何よりも供僧の命令に背くことなく年貢を負担することを誓約させられるようになる。さらに建治三年の中原一族の内紛のなかでも、お互いに相手を年貢未進者として非難し、自分を荘園領主に忠実な荘官として売り込まざるをえなくなるという変化が現われ始める。こうした変化の延長に弘安元年・同二年の定仏請文提出があり、そこではたとえ収納がなくとも年貢は納入しますという年貢請負者として補任を受けようとする態度がみられるのである。以前であれば、御家人の面目にかけてもかかる卑屈な文言を並べることはなかったであろう。ここで争われているのはもはやこの名の「由緒」を誰が正しく受け継いでいるかということではなく、誰が東寺に対して忠実な「請負人」かということだったのである。荘園の人びとが古い由緒を踏み越えて「実利」に向かって動いていくこと、名主職がその由緒を失って得分権化していくことは、動かしがたい動向となっていたのである。それがこの時代の姿であった。



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