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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    一 名主職相論
      末武名相論
 まず、すでに述べられているように、幕府の発した御家人領保護令を受けて御家人であった雲厳跡の所職である末武名をめぐって争われた相論をとりあげよう。
 建長三年(一二五一)三月、国御家人たちが遠敷郡太良保内雲厳跡が地頭若狭忠清に押領されていることを訴える(ノ函一)。これを受けて遠敷郡宮河の住人宮河乗蓮(家仲)は、自分は一九歳のときより雲厳に仕え雲厳の聟養子となって雲厳跡の末武名などを譲与されていると主張し、正嘉二年(一二五八)六月に名主職に補任される(は函四)。これに対し雲厳以来の相伝文書をもつ中原氏女は、弘長二年(一二六二)に乗蓮が前年守護使を引き入れたことなどを訴え、同年四月に末武名名主職に補任される(同前)。まもなく乗蓮は死去するが、中原氏女は夫の脇袋(瓜生)範継とともに乗蓮の重代相伝の垣中の墓所に乱入し、樹木を掘り棄て切り払ったという(フ函五)。
 文永七年(一二七〇)五月に乗蓮の娘である藤原氏女が夫の二郎入道師総とともに、末武名主中原氏女とその夫の範継は幕府より罪科人とされた稲庭時定の子孫であること、公領である末武名屋敷を永代に売却したことなどを挙げて名主職補任を求めて訴え出る(ぬ函六)。これに対し中原氏女は、乗蓮・藤原氏女は偽文書のほか証文をもたず、また御家人でもないなどの理由を挙げて藤原氏女に反論し、双方の訴陳(文書での応酬)が延々と続いた。他方で太良荘民も藤原氏女が提訴するとまもなく、脇袋範継と藤原氏女の夫の二郎入道師総はともに評判のよくない人物であることを東寺に注進し、さらに末武名は預所の名として百姓に配分され耕作してきたという由緒を申し立て、「百姓等の分年来の田畠、取り上げらるべきのよし承り及ぶの条、堪え難し」と述べて(ぬ函九)、この名を百姓に与えられるよう訴え出た(ぬ函七・九九)。また東寺内部でも正預所の聖宴が藤原氏女を支持し、預所代の定宴が中原氏女を支援していたから、紛争はますます複雑なものとなった。
 モンゴル襲来を予想する幕府の意向を受けて、文永十年十月には六波羅探題より若狭守護代に御家人跡を究明して処置せよとの命令が下され、末武名をめぐる外的な圧力はいっそう強まった(ホ函四)。こうしたなかで東寺の供僧は翌十一年二月、中原氏女は守護使引入れのなどの罪科があるとして末武名を御家人跡であることや相伝の由緒から切り離し、聖宴の配下である快深に「別御恩」として補任し、実際の所務は藤原氏女の夫の師総が行なうことになった(は函六)。快深はこのとき、今後は年貢などを怠ることなく負担するとの請文を提出している(は函八)。しかしこれは御家人跡復興令の趣旨に背くものであるから、名主職を改易された脇袋範継はただちにこの処置は幕府御教書に背くものだと抗議している(は函一二四、ル函一一)。さらに七月には藤原氏女も非御家人の快深では守護所の抵抗が強いので御家人である自分を任命してほしいと願い出ており、ここに東寺供僧の意図は挫折し、七月九日に藤原氏女が名主に補任される(ア函二六)。このとき藤原氏女の夫の師総は、年貢はどんな場合でも納入し、また供僧中の命令には背かないなどを誓約した請文を提出させられている(レ函七)。
図10 中原氏関係系図

図10 中原氏関係系図
注)□は氏名未詳、┄┄┄┄┄は推定を示す。

 これに対して中原氏女が訴えてくるのは当然であるが、また建治二年(一二七六)六月には若狭の国御家人たちも中原氏女を支持して、「蒙古国の事により、用意致すべし」という幕府の命令が出されているなかで、非御家人に名を与え、百姓名でもないのに百姓公事を徴収するのは許しがたいと東寺に訴えてくる(メ函一九)。中原氏女に有利に事が運ぶかとみえた矢先に、今度は中原一族の惣領中原国茂が、末武名は国茂父の国範が伝領したもので中原氏の「嫡々」の惣領たる自分が支配すべきであり、「末女子の末」である中原氏女や夫の範継のもつべき名ではないことを訴え出た(な函二六六)。そこで今度は中原氏一族内部の争いとなり、国茂と氏女・範継は互いに相手が荘園年貢を違乱する悪党的人物であるとして非難の応酬をしている(京函一四、み函九五)。その翌年の弘安元年(一二七八)九月に範継の入道名とみられる成仏は、名を中原氏女に与えられるならば、たとえ名からの収納がなくても年貢を納入する旨の請文を書いて供僧中の気を引き(ユ函一四)、翌二年二月にも同様の請文を書き(ニ函六)、この後まもなく中原氏女が補任されたと考えられる。宮河乗蓮が名主に補任された正嘉二年から、中原氏女が名主職を確保する弘安二年まで二二年間にわたり、大半が女の争いとなった末武名相論はこうして終わった。



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