目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
    三 海上交通の発展と得宗専制
      鎌倉最末期の越前と若狭
 実際、越前では元亨元年三月十五日、守護代寂阿の足羽郡木田荘への討入りと刈田狼藉を訴えた同荘雑掌重祐の訴状を送達し寂阿の召進を命じた六波羅御教書は、後藤壱岐前司(基雄)に充てて発せられており(資2 保阪潤治氏所蔵文書二号)、鎌倉最末期まで後藤氏が守護であったことは確実といってよい。越後・越中・能登は名越氏、佐渡は大仏氏、加賀は時敦流北条氏、そして若狭は得宗と、北条氏一門が守護を早くから世襲し大きな力をふるってきた北陸道諸国のなかで、越前は北条氏以外の御家人が一貫して守護であり続けた唯一の国だったのである。そして敦賀・三国湊などの要津に対しても天皇家の力が直接に及んでおり、院宣による関所の設定に対して関東―北条氏は、前述したように新関停止令を盾にとってこれに干渉するにとどまっている。
 こうした越前の国全体における地頭・御家人の勢力分布についても、史料が不足しているために全貌を明らかにすることは難しいが、平家没官領の足羽郡足羽御厨や、鎌倉初期に成勝寺執行昌寛の知行していた今立郡鳥羽荘・足羽郡得光保・丹生北・坂井郡春近、文覚が地頭であった丹生郡石田荘などは、関東御領として北条氏の手中に入った可能性はあり、鎌倉最末期に内管領長崎氏が地頭だった足羽郡主計保は得宗領とみてよかろう。根拠の必ずしも確実とはいえない場合をかなり含んでいるとはいえ、前述した荘・保をこれに加えると、北条氏の所領は一応かなりの規模になるともいいうる。
 しかし、守護後藤氏の所領は国衙領に一定の規模を占めていたことは当然推測することができるし、前守護島津氏も先に挙げた所領をすべて失ったとはいえない。また先に挙げた大野郡小山荘の地頭伊自良氏の左衛門太郎知綱は、嘉暦三年(一三二八)に穴間上下・秋宇・佐々俣・木本郷を年貢銭九五貫文で請所としており(資2 京大 一乗院文書七号)、鎌倉末期まで健在であった。さらに吉田郡志比荘地頭は道元を招請した波多野氏であったが、嘉暦元年に同荘地頭波多野出雲次郎左衛門尉通貞は、六波羅下知状に従って東寺に本家役呉綿一〇〇〇両を直納することになっており(せ函武九)、波多野氏の立場も変っていない。波多野氏は六波羅評定衆にもなった在京人であるが、丹生郡の宇治江村・糸生郷の地頭千秋氏も在京人であった。このように越前に所領をもつ地頭には在京人や六波羅に関係する人が少からずいたのであるが、これは若狭も同じであった。
 正応元年に関東御教書を施行した六波羅探題が美作左近大夫将監(本郷隆泰)と多伊良兵部房(頼尊)を両使としているように(ム函八)、大飯郡本郷地頭で美作を苗字とする本郷氏、遠敷郡松永荘・三方郡田井保の地頭多伊良氏はいずれも在京人とみてよかろう。また文永ごろ三方郡前河荘の地頭殖野(上野)氏の跡を受けた高木大夫家兼と日吉社との相論のさい、薬師寺左衛門入道道賢と出浦蔵人入道行念が「六波羅殿御使」となっているが(資2 斉民要術紙背文書一号)、嘉元三年ごろ遠敷郡安賀荘内万代名の田地数町を保持する出浦孫四郎重親がおり(資9 安倍伊右衛門家文書一二号)、信濃源氏の出浦氏も若狭に所領をもつ在京人として活動している。薬師寺氏の若狭での所領は明らかでないが、これも同様であったとみてよかろう。また出浦重親の従父兄弟の松田光阿の子息十郎頼成は六波羅検断奉行・引付奉行になった人で、嘉元二年には志積浦の刀安倍景延を重代相伝の所従と主張しており(同一一号)、おそらく三方寺を所領としていたのではなかろうか。その同族松田九郎左衛門大夫入道(頼行)は鳥羽上保下司職・多烏田七段の領主で(ユ函一二)、やはり六波羅引付の奉行人であった。
写真55 大飯郡本郷遠望

写真55 大飯郡本郷遠望

 得宗によって国富荘地頭職を奪われながらも、遠敷郡津々見保・武成名やあるいは西郷の地頭職を保持していた伊賀氏一族の有力者で山城前司光政の子息とされている伊勢前司兼光は、三方郡耳西郷・日向浦の地頭で、六波羅引付頭人・評定衆となっている。
 このように、越前・若狭に所領をもつ地頭の多くは京都と緊密に結びついていたのであるが、もとよりそれは地頭のみではなく、百姓まで含めて国の人びとは近江の今津・海津・塩津から琵琶湖を経る道を通って京都と深い関わりをもっていた。例えば、若狭一・二宮の十三代宜光景の五人の妻妾のうち二人は京都の女性であり、この宜一族の京都との結びつきのなかで、一・二宮自体が室町院領になっていたのである。
 実際、こうした現地の動向に応じて、天皇家や山門の越前・若狭に対する働きかけも活発であった。正和三年に若狭は山門の知行国になり、国務を掌握した澄春阿闍梨は文永以後の荘号の地を国衙領とし、国衙の興行を図っており、太良荘もまたいったん国衙領とされている(ウ函二一)。日吉神人らを通じての山門の影響力も前述したようになお強力で、厖大な山門領を基盤にした山門は、鎌倉最末期の激動にあたって越前・若狭それぞれに大きな役割を果たすこととなる。
 また文保二年(一三一八)に後醍醐が即位すると、若狭はその母談天門院の分国となり、太良荘には女院の令旨で近衛殿局という女房が預所に補任された(イ函二五)。東寺供僧は後宇多法皇の院宣を得てこの妨げを停止することができたが、同じ年若狭国に対し、建久以後の新立荘園まで含めて大嘗会用途が一国平均に賦課されたのである(の函八、ウ函二三など)。
 得宗専制のさえぎるもののない進展により、その存立に関わる強い危機念を抱いた天皇家の人びとや貴族たちの新たな動きが活発化するとともに、得宗―北条氏一門に対して根深い不満・怨念を抱く人びともこれに応じて動き始める。得宗によってかつての若狭最大の勢威を奪われ、鎌倉最末期には遠敷郡栗田保・三方郡三方郷・同郡犬丸名を若狭又太郎がわずかに保持するのみの状況にまで追いこまれた若狭氏は、まさしくこうした一族であり、やがておこる動乱に積極的な役割を果たすことになっていくが、「伊勢前司」とよばれた耳西郷地頭伊賀兼光はより積極的に反北条氏の策動を推進した。文殊・観音を信仰しそれを自らの名とした律僧殊音上人文観とかねてから「他に異なる」師檀関係を結んでいた兼光は、元亨四年に文観とともに「大願主」となり、「金輪聖主御願成就」のため大和般若寺の本尊八髻文殊菩薩騎獅像を造立した。これはまさしく後醍醐の第一次討幕計画の成就を祈った造立に他ならないので、若狭に大きな根拠をもつ兼光は、六波羅の要職にありながら、北条氏打倒にひそかに踏み切っていたのである。
 後醍醐の計画失敗後も、兼光は文観を通じて後醍醐との結びつきを保っていたものと思われ、おそらくそのことが関東に聞こえたのであろう。元徳元年十二月に兼光は一級昇叙を希望していたにもかかわらず、安達時顕の反対によってそれを阻まれた。これを不満とした兼光は出仕をせず、金沢貞顕にたびたび諌められて翌二年ようやく出仕し、昇叙も実現したかにみえるが、こうしたことも兼光の北条氏に対する憤懣をさらに募らせたに相違ない。
 こうした社会に広くひろがった反北条氏の空気を背景に新政を開始した元亨元年の末以後、後醍醐は京都の地そのものとそこで業を営む酒屋をはじめとする商工民を天皇の直属下に置き、さらにこれを全国に押し及ぼして神人の供御人化を図り、元徳二年には米一石を銭一貫文、米一果(一石)を酒一石と価を定め、二条町の東西に市庭を開いて商人に米を売らせ、さらに関東の新関停止令に挑戦するかのように綸旨によって諸関の関料を停止したのである。
 そしてその翌年の元弘元年、再度の討幕計画の洩れたのを契機に、後醍醐は挙兵に踏み切った。鬱積していた不満はこれを口火として一挙に爆発し、関東・六波羅の要職にある人びとや、有力御家人・在京人から「悪党」「海賊」といわれた交通・商業に関わりをもつ武装勢力、神人・山伏などを巻き込みつつ、次第に大きな渦になっていった。大乱がここに始まったのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ