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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
    三 海上交通の発展と得宗専制
      進展しない御内人との訴訟
 若狭において、得宗は小浜・西津をはじめ、こうした都市的な集落や海上交通の要衝の浦々をその支配下に置き、先の石見房覚秀のような富裕な借上を給主代として強力な支配力を及ぼしており、百姓たちも得宗の威をかりて領家に従おうとしなかった。太良荘において乾元元年以後、年とともに顕著になってきた百姓たちの損亡減免の要求と未進の増大は、まさしくそのことをよく物語っている(本章六節二参照)。
 このような状況のなかで、地頭得宗の給主となった御内人に対する領家の訴訟は、泥沼に入ったように全く進展しなかった。太良荘について東寺供僧が工藤氏を相手取っておこした訴訟は六波羅の法廷で進められたが、乾元元年に提出した初問状から六年を経た徳治三年三月に三問状を出すという遅延ぶりであった。論人の工藤氏が陳状を提出しないのである。百姓の損免要求に苦しみ、この年には四二石余、延慶二年にはついに八四石余の損免を認めざるをえず、他方では本家米の懈怠を責めたてる歓喜寿院寺官らの訴えを受け苦境に立つ東寺供僧は六波羅をせきたて、訴訟を始めてから八年たった延慶三年二月七日、ようやく六波羅探題は訴陳状・具書に目録を副え、関東の内管領長崎左衛門入道円喜に充てて送付し、訴訟は関東の法廷に移された(イ函一五)。
 その前年、「異賊蜂起」との情報が唐船によって伝えられ、鎮西探題の「異賊降伏祈令」が九州に発せられたが、関東では翌延慶三年になって全国に祈を命じた。若狭にも関東御教書・得宗公文所書下が下り、四月八日に税所代海部左衛門尉忠氏・守護代山北六郎入道永忍はこれを明通寺院主に施行した(資9 明通寺文書七号)。ほぼ同じころ西国の浦々で熊野海賊の大蜂起がおこり、幕府は一五か国の軍兵を動員してようやく鎮圧するなど騒然たる列島内外の状況のなかで、応長元年(一三一一)十月得宗貞時は死去し、九歳の子息高時がこれに代わった。
写真54 遠敷郡太良荘

写真54 遠敷郡太良荘

 東寺供僧はこの代替りをとらえて訴訟の推進を図り、正和元年には重要な証拠文書を鎌倉の「千田之後家尼御前」に預けて訴訟にそなえ、正和四年には雑掌を交替させ、その旨を長者の挙状で得宗高時に通知したが、給主工藤貞景がこれに応ずる気配もみせず、事態はいっこうに変らなかった(な函七〇)。
 この貞景が給主だった法勝寺円堂領の遠敷郡永富保でも、状況は全く同じであった。前述したようにこの保の場合も、給主代祐賢・盛弘によって「若干」(多く)の公田畠、預所の給田・土居、定使給が抑留され、預所は所務を全く奪われた状況にあったが、領家の訴訟に対し祐賢はこの保が稲庭時定跡の没収領で下地は地頭の一円進止と主張し、預所の役割をいっさい認めようとしなかった。領家側は元応二年(一三二〇)四月に何回目かの訴状を書き、給主代側には一紙の証文もないのに対し領家方からは多くの支証(証拠文書)を提出しているにもかかわらず、いっこうに裁許が行なわれないと訴えているが、これも太良荘の場合と同様であった。
 東寺供僧は元亨三年に北条氏一門の東寺長者佐々目僧正有助に、その師にあたる仁和寺真光院の禅助を通じて働きかけ、正中二年(一三二五)までにともあれ二問二答を行なうまでにこぎつけた。しかし供僧と給主貞景の主張を詳細に記した目安によってみると、東寺の雑掌が多くの証拠文書を引用して歴史的な経緯を明らかにしつつ、関東・六波羅の下知状にもとづいて論陣を張っているのに対し、得宗給主側の主張は先の永富保と同じで、太良荘は稲庭時定・若狭忠兼の没収地であり、没収地である以上、下地は地頭の進止であるという「単純明快」にすべての歴史を無視した論理を押し通そうとしている(影写本ヒ函)。
 その背後にほとんど絶対的ともいえるほどの当時の得宗権力があったとすれば、領家側の見通しは全く絶望的といってもよいほど暗いものであった。そしてこれは領家だけでなく、得宗の地頭代(給主)、あるいは得宗の掌握する税所の押領に直面した国御家人、国衙留守所の在庁の場合も同様であった。
 元亨元年のころ、御家人岡安孫二郎は大飯郡岡安名領主職を同郡佐分郷地頭であった得宗の代官に押領されて訴訟中であり、同じく御家人安賀・多田・木崎・和久里の諸氏が姻戚関係で結ばれた一門として伝領していた清貞名・是光名・利枝名・沢方名・正行名などの富田郷の田地が、同郷地頭で得宗の給主塩飽修理進(道法)に元亨元年八月の得宗公文所の処置として与えられたのに対し、先の諸氏はそろってその不法を訴えていた(ユ函一二)。また恒枝保公文職も給主塩飽新右近に付され、これを伝領してきた恒枝五郎信康が訴訟をおこしているが(ゑ函二七)、これらの訴訟の見通しも全く暗かったのである。また、御家人虫生五郎の跡を藤原氏女が伝領していた東出作名主職も、得宗公文所によって東郷地頭得宗分とされてしまっていた(ユ函一二)。
 そして、本来は留守所分などとして国衙の進止下にあったにもかかわらず、相論の結果このころまでに税所―得宗の沙汰と定まった所領として、千与次名・武延名の公文職、常満保・吉松名、さらに時枝名・国掌名・七郎丸名の名主職、宮同松林寺地主職、八幡宮・日吉社・賀茂社の宜職、相意名・是永名・四郎丸名・安行名・佐古出作地主職などを挙げることができる。
 早くからの得宗領、若狭忠兼の没収地、それにこうした鎌倉末期までに得宗領になった所領を加えてみると、その田数は六七八町四段四八歩で、総田数の三〇・六パーセントに及ぶ。これに名越氏と推測される備前守の地頭であった宮河保・同新保を加えると、北条氏一門領は七四〇町八段一三六歩、若狭の総田数の三分の一にあたる三三・四パーセントを占めており、これ以外にも得宗領あるいは北条氏一門領である可能性の残る荘・保があるので、この数字はなお多少増えると考えられる。
 このように、少なくとも若狭においては得宗と北条氏一門の勢力が文字どおり圧倒的で、これに対抗することはほとんど不可能にすらみえるが、前述したように、越前では史料の少ないため事情は十分明らかにできないとはいえ、若狭に比べて北条氏一門の力はさほど強かったとは思われないのである。



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