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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
    三 海上交通の発展と得宗専制
      津・泊での津料・関料の徴収
 しかしこのときの三ケ浦の刀たちが本阿の船を押さえたのは、おそらくは単に「漂倒船」という理由だけでなく、津料・関料の徴収に関わる根拠があったのではないかと推測される。実際、十三世紀後半から十四世紀にかけての活発な船の往来に即応して、海上交通の要衝となる津・泊では、こうした船あるいはその積荷に対し、さまざまな名目の津料・関料を賦課し徴収しようとする動きが顕著になってくる。
 そして先にふれた志積浦の廻船人たちが大野郡平泉寺大塔造営の事業を請け負った勧進聖によって船を点定されたこともあり、鎌倉末期に書かれた訴状もまた、越前の三国湊で足羽神宮寺修造のために勧進聖越後房が船中に積んでいた能米六石を点定したのを訴えるために書かれたように、神仏のための寺社修造の資金調達―勧進の名目で勧進上人が津料・関料の徴収を行なった点に、この時期の特有な問題がある。
 乾元二年(一三〇三)四月一日、越前の坂井郡坂南本郷の北方半分から公文時重が綱丁僧覚順に付して運送した八幡上分米五〇石のうち、足羽升米・気比升米・祇園升米・坂本升米・大津関米・醍醐升米各五斗の計三石が除分として差し引かれている(資2 吉田文書一号)。このうち坂本・大津は近江、醍醐は山城の関であり、一石につき一升の関料が徴収されたのであるが、足羽・気比・祇園は越前の関とみてよかろう。足羽は先の神宮寺修造との関係で三国湊の関とも考えられるが、前述した若狭の御賀尾浦の塩船が正安二年(一三〇〇)の辺津浜山をめぐる山門との相論に関連して、足羽郡北荘公文所に塩二二石・代銭一七貫四〇〇文、山門神人社使といわれた松尾越後房に二貫文、松尾河内阿闍梨に一貫五〇〇文、立願坊に塩一俵・代銭三五〇文、合わせて二一貫三五〇文を差し押さえられたのが、「越前国あすは」といわれている点から(資8 大音正和家文書八五号)、足羽そのものの関とみることもできる。ただ、気比は気比社修造のための升米で、敦賀津の津料とみて間違いなかろうが、祇園についても正応四年(一二九一)から六年間、同社の廻廊以下の所々に関わる修理料として敦賀津着岸升米(敦賀津料)が充てられており、すでに六年間は過ぎているとはいえ、気比社と同じく敦賀で徴収されたと考えることができる。とすると、足羽を地名とみるか足羽社とみるかによって三国湊かどうかの見方も分かれるが、それはともかく、敦賀と三国湊にはこのころさまざまな目的の関が相ついで立てられていた。
写真51 御賀尾浦塩船盗難物注進状写(大音正和家文書)

写真51 御賀尾浦塩船盗難物注進状写(大音正和家文書)

 モンゴル襲来に対処するため、関東は文永十二年(一二七五)に西国新関河手停止令を発し、西国における関所の設定・停止の権限―交通路支配権を掌握しており、それを起点とした文永以後新関停止令を正安二年から嘉元二年までの間に発している。それによって正安二年には越前の野坂経政所―敦賀津の津料が停止されたとされているが、延慶二年(一三〇九)正月二十三日、勧進聖信空上人の申状により、西大寺四王院・醍醐寺・祇園社の三方修造料所として敦賀津升米を充てるとの伏見上皇院宣が関東申次西園寺家に充てて発せられ、その旨を受けた関東はこれを六波羅探題北条貞房に施行し、徳治二年から五か年を限り三方修造に寄付するとし、この命を貞房は越前守護代に伝えた(資2 西大寺文書二〜五号)。
 これらの院宣や関東・六波羅の施行状などを信空は改めて院に進め、院が一覧したことを確認したうえで徴収の仕事を始めているが、そのさい敦賀津升米が「野坂御庄着岸升米」ともいわれており両者が同一のものであったことを知りうる点と、実際に升米の徴収にあたったのが敦賀津鳥辻子左近允という人物だったことを注意しておく必要がある(同六・九号)。「辻子」という苗字からみて、この人は敦賀の町の人であったといえるのではなかろうか。
 これに続いて正和二年、この翌三年から敦賀津升米を五か年重ねて西大寺四王院と祇園社に寄付するという院宣が関東に下り、九月二十日に六波羅充てに施行されているが(同一〇号)、おそらく醍醐寺からの訴えがあったのであろう。正和四年、改めてこの年から五か年醍醐寺の修造に寄付し、この寺の管領の年限が終わったのち五か年は西大寺四王院と祇園社の造営料とするとの院宣が発せられ、八月十日に関東はこれを六波羅に施行した(同一一号)。さらに翌五年閏十月十五日に、「敦賀津升米、石別壱升雑物百分壱」を祇園社神輿の造替料所としてこの年から六か年祇園社に寄付するとの後伏見上皇の院宣が祇園執行晴喜に充てて下っているが(同一二号)、これは先の造営料とはまた別の升米と考えられる。
 このように敦賀津の升米は一つの目的だけではなくさまざまな用途に充てられており、年未詳ではあるが、山僧が西大寺分の升米に濫妨したことに対し、延暦寺の大講堂料所は気比社分を改めて付されているので西大寺分とは異なるという趣旨の、葉室頼藤の奉ずる院宣が西大寺長老充てに下されていることからみても、それは明らかであろう(同一三号)。
 そしてこの気比社分については、元徳三年(一三三一)二月二十六日の後醍醐天皇綸旨によって、気比社造営のための料所として、敦賀津升米をはじめ気比荘莇野新御所・岡安丸一条返保公文などをこの年から一五か年、気比社の検校である妙香院僧正が一円知行することが認められ、造営・神宝については五か年で功を終えて遷宮を遂げるべしとされている(資2 竹内文平氏所蔵文書二号)。これらの事実によって、少なくとも西大寺・祇園社・醍醐寺の系列の升米と気比社・山門系の升米とは別であったことは、間違いないとみてよかろう。
 坪江下郷の三国湊でも、同じように津料はさまざまな目的で徴収されていた。正和五年五月、三国湊において長谷寺などが院宣を帯して津料を取っていたところ、文永以後新関停止令にもとづいて武家使俣野弥八・河嶋平内右衛門尉が一円神領に入部したのに対し、湊雑掌教顕は「武家の制法に任せ、本所の御計いとして」津料を固く停止するので武家使の入部を停止してほしいと訴えている(「雑々引付」)。ここで雑掌が述べているように、これ以後大乗院門跡は本所として坪江郷内での「国司津料」を停止しており、六月九日には坂井郡宮地浦(所在地未詳)で国司津料を取っていることについて源蔵人に対しその停止を命じているが、郷内での関郷大弐房や三郎蔵人などによる津料の徴収はなおやまず、停止が下知されている(同前)。この宮地浦は坪江下郷三ケ浦のなかにみえる「宮地分」にあたると思われ、梶浦・前浦(崎浦)・三保浦(安島浦)などの三ケ浦も津料徴収に関わっていた。先に述べた関東御免津軽船を「漂倒船」として差し押さえたのも、こうした津料の徴収を根拠としていたものと考えられる。
 一方これとは別に、三国湊での「交易上分」は内侍所日次供御料となっており、正和四年に内侍所沙汰人と湊雑掌とがこれを均分することが定められていたが、正和五年の六月十七日に大乗院門跡は、今村五郎・藤島下司などの人びとがこれに対して濫妨するのを停止すべしと坪江郷の安主に命じている(同前)。「国司津料」といわれているように、三国湊での津料は平安期にまでさかのぼる国司の徴収した津料の流れをくんでいるが、この時期になると院宣などの天皇家の承認のもとで、内侍所と長谷寺などがそれぞれにこれを得分とするようになっていたのである。
 しかしこの年九月二十五日、延暦寺東塔東谷檀那院の衆徒たちは集会を開き、坪江郷の住人深町式部大夫以下の人びとが「津料」の徴収に事寄せて「数輩の悪党」を率い、十禅師御簾神人を殺害し刃傷悪行に及んだとして、関東の津料停廃の事書や院宣にもかかわらずこのような「雅意張行の企」をする「南都」(興福寺)を糾弾し、「殺害を先とし、業とする」悪党を召し上げ重料に行なうべしとの事書を決定し、朝廷に訴えた(同前)。これも先の関東御免津軽船の場合と同じく、諸国の津・泊での津料・関料を免除された神人と、津料を賦課・徴収しようとする湊・津泊の人びととの衝突であり、こうした紛争が頻々とおこっていること自体が、海上交通・交易の著しい発達と、津・泊の人びとの生活する場としての都市の形成の進んでいることを、よく物語っているといえよう。



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