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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
    三 海上交通の発展と得宗専制
      廻船人の活動の活発化
 十四世紀にさしかかるころになると日本海の海上交通はさらにいっそう発展し、遠隔地まで航海して大量な物資を輸送・交易する廻船人の「大船」や、「塩船」などとよばれ特定の物品を積んで比較的短い距離の海を動く船などの往来が、非常に活発になってきた。
 例えば若狭三方寺内の遠敷郡志積浦の廻船人たちは、「段歩の耕作の地」もなく「只偏に廻船の業を以て身命を継い」でいると自ら述べている専業の海運業者であり、建長二年(一二五〇)八月の西山宮(道覚法親王)や弘長元年(一二六一)七月二十日の尊助法親王をはじめ、代々の青蓮院門跡の令旨によって自由な通行を保証され、広域的な廻船・交易に従事したものと思われる(資9 安倍伊右衛門家文書一四・一五号)。また正和五年(一三一六)に宮川保内の遠敷郡矢代浦住人栗駒宗延・延永らは、おそらくその船について越前の坂井郡三国湊の住人との間に紛争をおこしているが(「雑々引付」)、賀茂社領であった矢代浦の海民も、同社の供祭人として「浦々関々」を自由に通行しうる特権を保証されていたとみてよかろう。新日吉社領の倉見荘の浦であった三方郡御賀尾浦の塩船も、二一貫三五〇文に相当する塩を積んで越前の足羽にまで航行しているが(資8 大音正和家文書八五号)、これも新日吉神人であったことは十分にありうることである。そしてこの御賀尾浦の刀又次郎の妻となった常神浦刀蓮昇の娘乙王女は、父から「フクマサリ」という名前の「大船一艘」を譲られており(同三四号)、これも廻船に用いられた船とみてよかろう。
写真50 志積浦廻船人等申状案(安倍伊右衛門家文書、後欠)

写真50 志積浦廻船人等申状案(安倍伊右衛門家文書、後欠)

 これらの刀のような有力な海民は、神仏に直属する神人・寄人として関渡津泊を煩いなく自由に通行する特権を認められている場合が多かったと思われるが、永仁六年(一二九八)に「王増」という船に乗って出雲の三尾津の山手塩を預かった遠敷郡汲部浦の分大夫は、百姓身分の海民であったろう。この塩は翌七年に米に代えて出雲にもち下る予定であったが、「かんれう」(勘料か)を地頭方にとられたため、やむなく小山を売った代米一石五斗を弥権守が「泉太郎」という船に乗せて出雲に下ることになったといわれている(秦文書三九号)。船にはこのほか「くらまさり」「横増」「飯泉」のような名前がつけられ、時には仮名をつけることもあったが、先の多烏浦の徳勝の場合、船そのものが旗章を与えられることによって特権を保証されており、関東―得宗は海民その人ではなく、このように特定の船そのものに対して、津・泊・関における関料・津料を免除する特権を与えたのである。
 「関東御免津軽船二十艘」はまさしくそうした特権を保証され、津軽にいたる日本海を往反し、北の産物と西の産物とを交易する廻船であり、越中国大袋荘東放生津の住人本阿弥陀仏の「大船」がその「随一」といわれたように(「雑々引付」)、津々に根拠をもつ大船に関東―得宗は自由な通行を保証し、何らかの公事を奉仕させるとともに、海上交通や日本海の交易活動に対し強力な支配を及ぼした。
 嘉元四年(一三〇六)九月二十四日、本阿の大船が鮭をはじめ小袖などの荷物を積んで坂井郡坪江郷の崎浦の泊についたところ、多くの人勢を率いた三ケ浦の預所代左衛門次郎、崎浦の刀十郎権守、梶浦の藤内、安島浦の刀太郎たちによって、「漂倒船」として押さえ取られ、荷物も奪われた。「漂倒船」―「寄船」は無主物で、神仏に寄せられたものとしてそれが寄りついた浦がわがものとなしうるという慣習を根拠に、三ケ浦の人びとはこうした行動にでたのであるが、本阿はこれを関東に訴え、関東はこれに応じてたびたび召符を下し、美作四郎泰景(本郷泰景)を使として召喚したのに対し、崎浦の預所たちが陳状を進めようとしないので、徳治二年(一三〇七)十一月六日、本阿に訴えを正当と認める関東の下知が下った。ところが三ケ浦の人びとは船をはじめ「損物」をいっこうに返そうとしないので、本阿は再び関東に訴え、関東から六波羅、六波羅から坪江郷の本所大乗院家へと、何度も先の左衛門次郎(出家して入道専念)を召喚し損物を糺返させよとの命が伝達されたが、専念は全く応ずる気配をみせなかった。正和五年三月にも本阿の代官則房が重訴状を関東に提出し、六波羅・大乗院家へと伝達されたが、これも反応がなかったようで、結局元弘二年(一三三二)にいたって坪江郷側は薗阿弥陀仏を通じて二〇〇貫文の用途を本阿へ渡し、訴訟を止めてもらうことを申し入れ、本阿もこれを認め、二五年にも及んだ事件はようやく決着がついた(同前)。
 この経過によっても知られるように、本阿は直接関東―得宗に訴え、関東もそれに応じて動いており、「津軽船」に対する関東の保護は決して名目だけのことではなかった。



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