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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
    三 海上交通の発展と得宗専制
      神人の活動の展開
 坪江郷の住人に三国湊で殺害された十禅師御廉神人も日吉神人であるが、これより先の正安二年に日吉社大宮御油神人能延は、吉田郡河合荘沙汰人光信・覚賀以下の人びとが神人道円らの一類七人を殺害したとして天台座主に訴え、九月二十一日に六波羅探題は越前守護後藤筑後入道(基頼)に充てて座主宮令旨を施行し、尋ね沙汰(事実を調査して処置すること)すべきことを命じている(資2 荻野仲三郎氏所蔵文書一号)。
 このように、先の廻船人としての神人・供祭人だけでなく、特定の商品を扱う職能民や商人で特権を保証された日吉神人の活動は、この時期にも活発であったが、丹生郡越知山大谷寺にも神人が属していた。
 正応四年三月に大谷寺は日野川より西の商人たちの集団に下文を与えてこれらを神人職に補任しており(資5 越知神社文書五号)、延慶二年四月にも谷下宜の娘の得石御子橘氏女を八乙女神人に補任している(同七号)。八乙女の中の中心的な立場に立ったとみられるこの神人の場合も、巫女としての活動だけでなく商業交易に携わった可能性は十分にありうる。正和三年二月二十九日の大谷寺小白山の三月三日御供が下行された状況をみると、大谷寺には小白山別当をはじめ官仕・長者・作手・猿楽・衆徒・神人・八乙女・「こも(薦)のあき人」などが属していたことを知ることができる(同八号)。商工民・芸能民など多様な職能民が神仏に奉仕する代わりに特権を保証されていたのであるが、大谷寺だけでなく、若狭の明通寺の境内の在家に番匠・鍛冶・細工・山作がいたように(資9 明通寺文書一七号)、多少とも規模の大きい寺社は、こうした職能民を神人・寄人として所属させていたのである。
写真52 大谷寺神人職補任状案(越知神社文書)

写真52 大谷寺神人職補任状案(越知神社文書)

 大谷寺に属していた「作手」の職種は明らかでないが、越前には轆轤師の集団も活動していた。正安三年十一月日の大嘗会悠紀細工所行事所下文は、写が伝わっているのみで文言にも誤写があると思われるが、「重役無双の御作手」として平助守・海恒重を越前国轆轤師の兄部職とし諸方の違乱を停めた文書として、その内容を生かすことはできると思われる(資6 大河内区有文書一号)。



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