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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
    一 モンゴル襲来と社会の変動
      モンゴルの圧力と御家人・非御家人の対立
 このように地頭と百姓・領家との対立の背景には社会の大きな変動があったのであるが、太良荘の文永三年から建治二年の間の損亡率が二八・六パーセントから四四・五パーセントに及んでいることからも知られるように、百姓たちは領家に対してもその意のままにはなっていなかった。
 末武名の相論のなかで、勧心らの三人百姓が文永七年、平仮名交じりのあるいは漢字のみの申状を何度も東寺に提出し、名主職を争う藤原氏女・師総と中原氏女・範継のいずれもが「上の御ため、百姓等のため」にならないと強調する独自な動きを示している点に、それはよく現われているが(ぬ函八〜一〇)、そうした矛盾をはらんだ列島の社会にモンゴルの圧力は次第に強く及びつつあった。
 文永八年八月、モンゴルの征服に頑強な抵抗を続けていた高麗の水軍三別抄からの援助を求める使に対し、理解しないままに王朝・幕府は答えなかったが、そのあとを追うように九月、モンゴルの使趙良弼が大宰府に来着した。幕府はここで、「蒙古人襲来」にそなえ、九州に所領をもつ地頭・御家人たちを所領に下向させて九州の防備を固めるとともに、悪党を厳しく禁圧することを命じ、内外の矛盾に立ち向かおうとしているが、幕府自体の内部の得宗御内人と御家人勢力との対立は次第に深刻の度を加えており、それが越前・若狭にも影響を及ぼしてくる。
 若狭ではこの前年の文永七年に、長い間守護だった六波羅北方探題北条時茂が死去し、この年から執権の地位に立つ得宗北条時宗が守護となり、守護代として御内人の渋谷小馬十郎経重が下向してきた。時宗はこれより先の弘長三年から税所今富名の領主となり、伊賀光政を代官としていたが、ここで大飯郡佐分郷や遠敷郡西津荘・開発保などの守護領を加え、若狭の中枢部を掌握することとなった(「守護職次第」「税所次第」)。
写真43 過所船旗

写真43 過所船旗
 これにただちに反応したのは西津荘の多烏浦の海人たちで、この年、刀秦守高は守護代渋谷氏に対し、浦の成り立ちを述べつつ汲部浦の不法を訴えてでるとともに(秦文書一六・一七号)、文永九年二月には、浦の大船徳勝に対し「国々津泊関々」を煩いなく自由に通行しうる特権を認められ、北条氏の三つ鱗の紋を描いた旗章(過所船旗)を与えられたのである(同一九号)。この船は後年、越中国放生津(富山県新湊市)を根拠として活動したことの知られる本阿の大船と同じく、あるいは「関東御免津軽船二十艘」のうちの一艘であったとも考えられるが(本節三、二章一節一参照)、それはいずれにせよ、この旗章の廻船への授与は、日本海の海上交通にその支配を及ぼそうとする得宗の積極的な姿勢をよく物語っているといえよう。この年から翌十年にかけて、守護代渋谷経重は多烏浦と汲部浦との紛争を次つぎに裁決し、これらの浦々に対する支配を固めている(同二〇〜二四号)。
 一方、この文永九年十一月二十日、関東は田文調進令を諸国に充てて発し、神社・仏寺・荘園・公領などの田畠の員数、領主の交名(名簿)の注進を命じた。若狭についても得宗時宗はこの命を守護代渋谷経重に伝え、経重は翌十年二月二十日に在庁の田所と推測される包枝進士光全に充てて在庁・御家人への伝達を指示し、光全は三月十七日に郡・郷・荘・保の政所へこれを通達した。そして二十五日には早くも遠敷郡瓜生荘分について脇袋範継が請文を出しており、大田文は順調に調えられたと思われる(ア函二五、フ函七)。
 もとよりこれは、予想されるモンゴルとの戦争のさいの軍役を含む公事賦課の基礎となる台帳を整備するための措置だったが、意外なほどに御家人の所領の移動が進行していたことを知った幕府は、文永十年七月十二日に思い切った御家人の所領回復令を発した。御家人の質入した所領については、本銭を弁じなくても本主が領知することを認めたこの法令とともに、訴訟の公正と迅速な処理が引付衆・奉行人に命ぜられ、亀山治政下の朝廷も九月二十七日に二五か条の新制を発するなど、まさしく東西相呼応した「徳政」がここに実施されたのである。
 この動きを早くからとらえていたのか、若狭国御家人は徳政令の発せられるよりも前に、旧御家人跡の復興―いわば御家人領についての徳政を求める申状を関東に提出しており、七月二日、子細を尋ね明らかにして処理し、事情を注進せよとの関東御教書が六波羅探題に充てて発せられ、十月十五日には所職を得替された御家人たちをともなって上洛せよとの命を、六波羅は守護代に対して下している(ホ函四)。
 あたかもこのころ、太良荘の預所聖宴は末武名の名主職に自らの「所従」といわれた順良房快深を推し、文永十一年二月その補任に成功していたが(は函六)、前々からこの名主職を要求していた脇袋範継は先の旧御家人跡の興立を推進した関東・六波羅の御教書を拠りどころとして、非御家人である快深には御家人領末武名を知行する資格はないと東寺供僧の法廷に訴えて出た(ル函一一・一三)。
 そして供僧が二問二答をさせたうえで快深に名主職を与えようとすると、範継はさらに強硬な申状を五月に提出し、寛元の追加法、建久の御家人交名、六通に及ぶ関東・六波羅の御教書を副え進め、御家人領を復興しようとする関東の方針に供僧の処置は反すると糾弾した(ト函一三)。これに対し、供僧と預所代定宴は御家人を自称する藤原氏女を快深に代えて名主職に補任したが、範継はここで守護所に訴え、それに応じて守護又代官渋谷小馬八郎太郎重尚は、御家人跡の興立は関東から守護に厳しく命ぜられているところとして徹底的な介入に乗り出し、ついに名に点札を立てるにいたった(エ函一一九、は函一一など)。
 かつて関東の地頭に抵抗した若狭国御家人の連帯は、ここではむしろ関東の徳政令、それを執行する守護に支えられて非御家人・凡下を排除することになっているので、モンゴルの圧力はこのように特権的な立場を保守する御家人と、非御家人・凡下との矛盾・対立を否応なしに鋭いものにしていったのである。



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