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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    一 越前の荘園・国衙領と地頭・御家人
      坂井郡
 坂井郡は越前の最も北に位置し、加賀国に接する。南北二郡に分化し、ほぼ坂井平野の西南部と九頭竜川以西の海岸部が坂南郡、他の坂井平野の大部分とその東および北の丘陵・山地が坂北郡に属した。
 平安末期に河合斎藤系の坂南太郎成行・同助家父子がすでに系図にみえ(通1図96)、坂南郡の領域化が進んだ。降って鎌倉後期の文永十年には坂南郡地頭の存在が知られる(秦文書二四号)。坂南郡の中心とみられる坂南本郷(旧坂井郡本郷村)は鎌倉末期に南北に両分され、その北方は石清水八幡宮に上分米五〇石を送っている(資2 吉田文書一号)。
 榎富荘(春江町江留上・江留中・江留下)は平安末期には後白河院領だったが、寿永三年八月に崇徳上皇廟所の粟田宮に寄付された(資1 天理図書館所蔵吉田宮文書)。鎌倉初期には後白河院の娘の殷富門院が当荘を管領し、その女房の民部卿局が知行した(資2 普賢延命法裏文書二号)。鎌倉後期において粟田宮への本年貢は毎年米三八〇石だった(「粟田宮文書」)。春近(春江町針原一帯)は前述のように建久元年に成勝寺執行昌寛が地頭職を知行した。
 次に坂北郡では、長講堂領坂北荘や春日社・興福寺領の河口・坪江荘など特別に大きな荘園が成立しており、荘園の数は全体として少ない。
 磯辺荘(旧坂井郡磯辺村)は古代の坂井郡磯辺郷の名を継ぐ荘園で七条院領に編成され、板倉御厨(丸岡町板倉)と粟田島(丸岡町二ツ屋から油為頭にいたる地域)も付属していた。粟田島はおそらく古代の坂井郡粟田郷に関係するものであろう。
 坂北荘は郡名と同じ名をもつ大きな領域的荘園で、平安末期に成立し長講堂領となった。鎌倉末期には後深草院の後宮藤原相子が当荘を知行し、嘉元二年七月に院が没すると伏見院庁に本家役を納入した。その本年貢は呉綿一万両という厖大なもので、後述するように荘内の坪江郷が春日三十講料所になってからは八二一二両一朱あまりに減った。坂北荘の荘内には高椋(丸岡町高田から儀間にいたる地域)・小島(丸岡町儀間から八ツ口にいたる地域)・船寄(丸岡町舟寄)・但馬(坂井町田島・田島窪)・長畝(丸岡町長畝)などの諸郷があった。この長畝と高椋はそれぞれ古代の坂井郡長畝・高向郷の名を継ぐものである(資2 集三号、東山御文庫記録一〜六号)。また長畝郷内には宮地(坂井町宮領)・玄陽(丸岡町玄女)、そのほか久米田などの地名がみえ、これに坪江郷の地を加えると坂北荘はもと坂井平野の東南四分の一ほどを占める大荘園だった(資2 水無瀬宮文書一〜六号)。
 一品勅旨は八条院領の庁分の荘園で、現在の丸岡町の中心部一本田にその名を伝える。平安末期に本免田三〇町加納一四町からなっていた(資1 文化庁保管高山寺文書)。
 長崎荘(丸岡町長崎)は善勝寺(白河院近臣藤原顕季の子孫一族の氏寺)の別当領で、鎌倉後期に別当職をもつ興福寺光明院と顕季の末流の四条家が争った(「中臣祐賢記」弘安三年九月二日条、資2 東山御文庫記録二四・二五号)。
図6 坂井郡河口荘地頭関係系図

図6 坂井郡河口荘地頭関係系図
注)『尊卑分脈』により作成した。

 河口荘と坪江郷は坂北郡のほとんどを占める著名な大荘園で、これについては後述するが(二章四節四参照)、その成立については詳らかでなく、在地の伝承も確たるものではない。ただ鎌倉中期ごろの興福寺東北院の所伝によれば、河口荘は東北院忠範の先祖相伝の所領で彼が申請して立てたものとされる(「三箇御願料所等指事」)。忠範は前述のように足羽郡木田荘を知行しており、越前の各地と関係をもっていた人物で、この所伝を無視することはできない。河口荘の地頭については、疋田斎藤系の武士が任じられたと考えられるが、承久三年十月まで地頭と号した武蔵局という女性は前右大臣近衛道経の妾で、長男近衛基輔を産んで京都の公家社会にかなりの地位を占めた人物であるが、実は疋田斎藤の本流とされる疋田以成の孫娘である(資2 福智院家文書二号、『尊卑分脈』)。武蔵局が具体的にどのようにして地頭職を手に入れたのか詳らかでないが、鎌倉初期に疋田斎藤系の一族が相ついで河口荘の地頭としてみえることは、平安末期の当地の開発に疋田斎藤氏が深く関わっていたことを暗示するものであろう。



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