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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    一 越前の荘園・国衙領と地頭・御家人
      吉田郡
 吉田郡の初見は建久元年で(資2 宮内庁書陵部 (その他)二号)、その成立は平安末期であろう。郡名の由来は詳らかでないが、いかにも中世的な佳名である。足羽郡と対照的に領域的で大きな荘園が成立し、郡域のほとんどがこれらの荘園で埋められる観を呈した。また大覚寺統の公家領荘園があまりみえないのも特徴的である。河合斎藤系の本拠地であり、彼らと平氏政権の関わりが荘園の成立に重要な意義をもち、また東隣りにある大野郡白山平泉寺の影響力も強かった。
 志比荘(旧吉田郡志比谷村・上志比村・下志比村)は九頭竜川中流南岸域の大荘園である。永平寺町法寺岡の地名は当荘の示の打たれた場所に由来するという。高倉天皇生母建春門院が法住寺殿内に造営した御願寺最勝光院の当初の寺領とみられる。疋田斎藤系の一族に志比大夫と号した藤原為隆という人物がみえるので(『尊卑分脈』)、彼が当荘成立期の有力領主と思われる。鎌倉殿勧農使を務めた比企朝宗が地頭で(『吾妻鏡』建久五年十二月十日条)、のち波多野氏が地頭となる。六波羅評定衆を務めた波多野義重は道元を当荘に招請し、永平寺を開いた(本章七節二参照)。鎌倉末期に志比荘の領家は二条家一族の尋源だった(資2 宮内庁書陵部 (その他)四号)。そのころになると最勝光院自体も衰微し、正中元年(一三二四)に後醍醐は最勝光院の本家職を東寺に寄進し、当荘もその一つとされた(せ函武九)。しかし本年貢の綿一〇〇〇両はいっこうに納入されず、翌二年末に後醍醐は地頭に本年貢の直納を命じ、以後長く東寺と波多野氏の相論が続いた。
写真33 吉田郡志比荘遠望

写真33 吉田郡志比荘遠望

 吉野保(旧吉田郡吉野村)は荒川の上流域で、前述のように梨本門跡領だった。
 藤島荘は福井市街北部の九頭竜川以南にあった荘園で、荘域はほぼ旧吉田郡東藤島村・中藤島村・西藤島村にわたる。平家没官領で当初源頼朝はこれを平泉寺に寄進し、藤島保もしくは藤島領とよばれた(『吾妻鏡』建久元年四月十九日条、資2 宝生院文書一号)。ついで天台座主慈円が延暦寺に始めた勧学講の料所となり、のちには青蓮院の所伝によると右衛門尉藤原助近相伝の私領だったといい、また平重盛の所領ともいう(「勧学講条々」)。河合斎藤系の本流に属するこの助近は当地の開発領主とみられ、その子実近・実光はそれぞれ志原(松岡町芝原)・中村(福井市上中町・下中町)を苗字とした。その兄弟一族は越前の在地や有力寺社に重い地位を占めたが、源平の合戦で平家方に属して滅びた。助近も寿永二年六月の加賀国篠原(石川県加賀市)の合戦で木曾義仲に討たれたという。平泉寺はこうした在地勢力が依拠した地方有力寺院であるが、平安末期には延暦寺の末寺(別院)となる。慈円はそうした本末関係を利用して当荘を入手し、開発を進めて自分の門跡領に取り込んでいった。建暦二年の目録によれば、藤島荘の所当は米四八〇〇石・綿三〇〇〇両という大きなものであった(「門葉記」)。藤島荘の在地は大きく上郷・下郷に分かれ、下司・公文が置かれていた(資2 武田健三氏所蔵文書一号)。
 今泉荘(福井市北今泉町・東今泉町)は藤島荘中村の南隣りに位置し、平安末期に摂関家一族の皇嘉門院領だった(資1 九条家文書)。曾万布荘(福井市曾万布町)は十一世紀中ごろに成立し、法成寺東北院領で殿下渡領に編成される。鎌倉末期に春日社西御塔造営料所に寄進され、そののち長く興福寺西南院が知行した(資2 宮内庁書陵部 九条家文書三号)。
 河北荘(旧吉田郡河合村・森田村)は九頭竜川以北の大荘園で、古代の足羽郡川合郷の名を継いで河合荘ともいわれた。仁和寺相応院の僧隆憲が御室守覚法親王に寄進した所領がその前身となり、建久元年その見作田六〇町を二品守覚法親王の品田に充てて親王家領として立荘が認められた。この隆憲の生家はもと摂関家の家司の家柄に属したが、藤原頼長の外戚方であったために保元の乱ののちに家が没落したものである。兄の頼円も仁和寺の僧で、当時越前にもいくつかの寺領のあった法金剛院の執行を務めた。この河合の地は吉田郡・足羽郡一帯に大きな勢力をもった河合斎藤系諸氏全体の苗字の地で、稲津氏の祖実澄や平泉寺長吏斉命の子が河合と号したという(『尊卑分脈』)。これまでたびたびふれた河合斎藤氏に属する検非違使藤原友実は、元服する以前から殺されるまで守覚法親王に従い、仁和寺内に屋地を給わり住んでいたという。前述のように仁和寺領の丹生郡石田荘地頭であり、法金剛院領の今立郡河和田荘の「地頭下司」を自称し、越前の寺領支配に深く関与していた。当荘の成立と支配にも彼が直接関係していたものと推定される。この守覚法親王の家領は河北御領もしくは河北御品田ともよばれ、御所の北院薬師堂領に編成されて隆憲の知行が認められた。二代将軍頼家の代までに地頭が補任され、頼家はその停止を請け合っている(資2 仁和寺文書一・二号)。
 河南荘は妙法院門跡の管領する所領で、三郷からなっていた。河北荘に対して九頭竜川以南の地と考えられる(資2 妙法院文書四・九号)。



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