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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    一 越前の荘園・国衙領と地頭・御家人
      丹生郡
 丹生郡は中世では丹生北郡とよばれた。その初見は嘉応元年(一一六九)の文書で(資1 東大寺文書)、このころまでに古代の敦賀郡と丹生郡が再編成された。
 『吾妻鏡』建久元年四月十九日条所載の注文のなかに、越前の鳥羽・得光・丹生北・春近の四か所を成勝寺執行昌寛が知行しており、伊勢内宮の役夫工米(式年遷宮の費用)の納入をすべて済ませたとされている。この昌寛は源頼朝の奉行をたびたび務めた御家人であり、右の四か所は京都白河に建立された六勝寺の一つの成勝寺領ではなくして昌寛が地頭職だったとみるのが妥当であろう。このことから丹生北郡には郡地頭が置かれたものと考えられる。
 丹生北郡は地勢からみて武生盆地の西部、丹生山地、越前海岸部に三分されるので、以下この順に述べる。永万元年(一一六五)に神祇官へ年貢を貢進した神社の注文によれば、越前には気比社・大虫社・剣社の名がみえるが(資1 永万文書)、こうした国衙と関係をもつ神社も荘園化した。大虫社は鎌倉期に延暦寺三門跡の一つの妙法院門跡領に編成された。七条院の次の越前の分国主である北白河院がその所生の後堀河天皇の祈料所として永代寄進したものといい(資2 妙法院文書八号)、その時期は寛喜年間(一二二九〜三二)のことと考えられる。ついで寛元三年(一二四五)四月に徳大寺家出身の僧恵光院公性は坊舎・聖教などを一門の上首だった西園寺公経の子息尊恵に譲っているが、その所領のなかに越前では丹生郡八田別所・吉田郡の吉田河南とともに大虫社がみえる(同四号)。尊恵は妙法院門跡になっているので、このころから門跡領化したのであろう。
 吉野瀬川の中流、大虫の東隣りには岡本・太田という村があったが(資6 田中四郎兵衛家文書)、このうち太田には太田野保(武生市上太田町・下太田町)という所領が設定され、鎌倉末期には日吉社の料所になっている。美賀野部荘(武生市片屋町)は六勝寺の二番目にあたる尊勝寺の曼荼羅堂の便補保で、鎌倉初期に九条家一族が知行した(資2 宮内庁書陵部 九条家文書一号)。
 古代の丹生郡野田郷の名を継ぐ野田郷(鯖江市上野田町・下野田町)野田の東隣りの宇治江(鯖江市上氏家町・下氏家町)は千秋宇治江氏の苗字の地である。千秋氏は源頼朝の母方として栄えた有力御家人で熱田大宮司流の一派である。その子孫にあたる藤原兼範という人物は嘉元四年(一三〇六)八月に宇治江村源五郎名内の田地二段を父母の追善供養の資として、越知山大谷寺に寄進している(資5 越知神社文書六号)。この兼範の子範世は「千秋宇治江五郎」と号し、千秋氏の一族である野田氏の女子を妻としている。そしてその子高範は千秋氏の本流を継いでいる(『尊卑分脈』)。このように千秋宇治江氏・野田氏・千秋氏は親しい一族であることがわかる。また室町期に野田郷を千秋氏が知行していたこともみえる(資2 一色家古文書一号)。野田氏は三河国設楽郡の野田(愛知県新城市)より興ったとされるが(『姓氏家系大辞典』)、こうした確実な史料からするとむしろ越前の野田郷を苗字の地としたものと考えられる。
 大蔵荘(鯖江市大倉町)はもと平清盛の家領で、永万年間(一一六五〜六六)に摂津国山田荘(神戸市)と交換され、六勝寺のうち三番目の最勝寺領になった。鎌倉初期には北条時政が大蔵荘の地頭職を知行し、時政は一族の平時定を地頭代として現地支配にあたらせた。文治二年(一一八六)最勝寺は大蔵荘を平時定や常陸房昌明が押領していると後白河院に訴え、源頼朝に院宣が下された(『吾妻鏡』同年九月十三日条)。頼朝は年貢課役を勤めるように命じているが、その後の地頭職については明らかではない。
 大蔵荘の北隣りの石田荘(鯖江市石田上町・石田中町・石田下町)はもと参議藤原教長の家領で、康治二年(一一四三)仁和寺に舎利会の財源として寄進された(資1 「仁和寺御伝」)。平安末期には御室守覚法親王に近侍した河合斎藤系の藤原友実が石田荘の地頭だった。友実は文治元年十二月に源義経によって殺され、鎌倉幕府はその跡に地頭を補任したが、守覚がその停止を求めたということでいったん地頭は停止された。そののち源頼家はそれは守覚の本意ではなかったと称して建仁三年(一二〇三)に文覚を地頭に補任した(資2 仁和寺文書二号)。ところが同年に頼家は失脚し、文覚も再び配流されてしまう。以後の地頭については詳らかではない。石田荘の隣の田中荘(朝日町西田中・田中から天王川北岸一帯)にも鎌倉末ころまでに地頭が置かれたらしく、建武四年(一三三七)十二月に足利尊氏は京極高氏の子秀綱に田中荘を充行っている(資2 佐々木文書一号)。のちに飛鳥井家領となる。志津荘(志津川上流一帯)は賀茂御祖社(下鴨社)の供御田として寛治四年(一〇九〇)に寄進された荘園で、田数は四〇町とみえ(資1 「賀茂社古代荘園御厨」)、古代の丹生郡賀茂郷を受け継ぐものと思われる。清水町大森に総鎮守の賀茂神社が鎮座する。安居郷(旧丹生郡西安居村・足羽郡東安居村)は足羽郡の足羽荘の別納の地とされ、鎌倉末期には大覚寺統に伝わった(資2 亀山院御凶事記三号)。伊勢神宮領の安居御厨もあった(資2 神宮文庫 (その他)二号)。
写真29 丹生郡賀茂神社(清水町大森)

写真29 丹生郡賀茂神社(清水町大森)

 西部の丹生山地のなかには大規模な所領が成立している。まず山干飯保(旧丹生郡白山村)は鎌倉中期ごろに荘園化が図られたようで、正元元年(一二五九)知行国主の四条隆親は山干飯保を新立荘園停止の対象としている(『経俊卿記』同年五月五日条)。織田荘は旧丹生郡織田村の地を中心とする大きな荘園だった。中下級貴族の高階宗泰が建保六年に分国主の七条院に寄進して成立した。七条院は当初は織田荘を御願寺の歓喜寿院領に編成したが、安貞二年孫の尊性親王に譲り、親王は延暦寺の妙法院門跡を再興し織田荘も門跡領に組み込まれた(資2 妙法院文書一・八号)。また前述の八田別所(宮崎村八田)はもと平泉寺僧良覚の開発地で、良覚はこれを日吉社の料所に寄進したが、のちに再寄進されて妙法院門跡に伝えられ織田荘内とされた(同四・七号)。このように織田荘は鎌倉前期に国衙領が大規模に荘園化したものであるが、その背景には越前国衙・在庁官人と織田荘の中心にある越前二宮の剣社との関係を想定しなくてはならないだろう。なお、宮成保(宮崎村末野大谷)には南北朝期に地頭職がみえる(資2 園城寺文書二号)。
 織田荘の北方の国衙領の糸生郷(旧丹生郡糸生村)には越知山大谷寺があり、鎌倉初期に地頭が置かれていた(資5 越知神社文書二〇号)。のちに千秋氏が越知山や糸生郷山方(越知山周辺の山村)の地頭だったことが知られるが、当郡の北部に勢力を張った御家人千秋氏が頼朝在世中から当地に所職を充行われていたものと想定される。
 丹生郡の海岸部にも多くの浦々があったが、その北端近くに鮎川荘(福井市鮎川町)があった。高陽院領とよばれる一群の摂関家領に属し、その成立は十一世紀までさかのぼりうる。越前では他に足羽郡宇坂荘と越前勅旨(所在地未詳)が高陽院領だった(資2 近衛家文書一号)。建久二年には鮎川荘は近衛基通の家領としてみえ、以後近衛家領となる。この年藤島三郎なる者が当荘に濫行を働いているが、藤島三郎については後述する平泉寺領吉田郡藤島荘を苗字の地とした有力武士と考えられる(本章二節一参照)。



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