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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    一 越前の荘園・国衙領と地頭・御家人
      南条郡
 南条郡はもと南仲条郡といい、古代から中世にかけて新しくできた郡である。当郡も荘園の数は少なく、国衙の支配が相当強く及んでいる。
 敦賀から木ノ芽峠を越えると南条郡に入り、新道・帰(今庄町南今庄)に出る。この地は古代の敦賀郡鹿蒜郷の名を継いでいる。鳥羽上皇皇女の八条院の養子藤原良輔の所領である殿下返とこれが伝領された妙香院(青蓮院門跡)領一条返保は当地に比定される。また新道・加恵留保は日吉社領で(「日吉社神領注進記」)、後者は後嵯峨院が寄進したものとされる。
 徙都部郷は古代の敦賀郡従者郷の名を継ぐもので、今庄町の田倉川流域とそれ以南の日野川上流部に比定されるかなり大きな国衙領である(資6 慈眼寺文書一号)。杣山荘(旧南条郡杣山村・南杣山村)は前述の七条院領の一つで、のちに大覚寺統に伝えられる。西園寺実氏の妻で後深草・亀山両院の外祖母にあたる藤原貞子の所領で、弘安六年(一二八三)には花山院長雅が知行していたが、罪科により所職を召し上げられたという(『勘仲記』同年二月十六日条)。杣山荘内友貞名は西園寺実氏の姪宣仁門院が知行し、のちに彼女の外甥の九条忠教に譲られて、その氏寺の法性寺一音院領に編成された(資2 宮内庁書陵部 九条家文書四号)。
 脇本荘は旧南条郡南日野村のうち上平吹を除いた部分にほぼ相当し、平吹は国衙領平葺郷に属した。脇本荘は鳥羽院の中宮の待賢門院の所領としてみえるが(「島田文書」)、河合斎藤系の脇本氏がその成立に関与したものとみられる。鎌倉期は後白河院の皇女宣陽門院から持明院統へと伝えられ、待賢門院の創建した法金剛院領に編成された。熊野社は早くから当荘の所職を与えられており、荘内に熊野社が勧請されていた。
 脇本荘の北隣りの大塩保(旧南条郡王子保村の一部)には、早くから地頭が置かれていたことが確認される。建保二年(一二一四)前後のことと推定されるが、武者所経保という人物は御家人白崎蔵人の墓所をめぐる争いについて「大塩保地頭法橋下文」という文書を守護に提出している(資2 醍醐寺文書一六号)。この白崎蔵人の苗字の地は現在の武生市白崎町に比定されるが、当地も大塩保内であったのであろう。池上荘(武生市池ノ上町付近)は鎌倉初期の建久六年(一一九五)に荘号がみえ、太政官厨家関係の所領として官務小槻氏が知行した(資2 吉川半七氏所蔵文書一号)。
 越前の海岸部については、南北朝期南仲条郡の奴可浦(河野村糠)と丹生北郡の玉河浦(越前町玉川)の地頭職を足利尊氏が日吉社に寄進している。この所職は斎藤三郎兵衛尉跡といわれ、鎌倉期に越前斎藤氏が知行していたものと推定される(「日吉大社所蔵文書」)。なお、室町期南仲条郡の川野浦(河野村河野)は府中惣社の神領としてみえている(「刀文書」『越前若狭古文書選』)。



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