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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    一 越前の荘園・国衙領と地頭・御家人
      今立郡
 今立郡は平安初期に丹生郡から分かれて成立したものであるが、日野川を挟んで丹生郡の東方に位置する。この今立郡は平安末期までにおおむね条里によって四分割され、今南東・今南西・今北東・今北西の四郡(条)になった。国府に近い今南東・今南西郡では鎌倉期に荘園化が進み、大覚寺統に伝えられたものが多い。一方今北東・今北西郡には平安期の比較的古い荘園がある。以下この順序で述べる。
 池田荘(旧今立郡上池田村)は当郡の東南端に位置する山間荘園であるが、当地の王神(池田町常安の日野宮神社)に対する正和二年(一三一三)十一月の神田寄進状には地頭代・公文の署判があり、鎌倉末期当地に地頭が置かれていたことがわかる(資6 梅田雅文家文書一号)。一方、長門本『平家物語』によれば北条時政は池田荘に関する知行を源頼朝から得たとされており、越前の他の事例からみて時政が当荘の地頭だったものと想像される。
写真30 公文時光・地頭代平連署神田寄進状(梅田雅文家文書)

写真30 公文時光・地頭代平連署神田寄進状(梅田雅文家文書)

 鞍谷荘(武生市の鞍谷川一帯)は気比社・一品勅旨田とともに平安末期には八条院領としてみえ、鎌倉末期には後宇多院の庁分に編成された大覚寺統の荘園だった。その南隣りの文室には妙香院別院の文室寺があり、鎌倉期に青蓮院門跡の勢力が及んでいた(『華頂要略』門主伝)。
 真柄荘(武生市上真柄町・真柄町)は今南西郡の東南端に位置する。橘行盛の私領真柄保とそこに建立された氏寺の料田四町が母体になったもので、建久三年八月に越前の分国主七条院の兄藤原信定に譲られた。本領主の橘氏については詳らかではないが、信定もしくはその父信隆の母方の縁者とみられる。信定自身その翌四年に越前守に任じられるのであるが、真柄保の領有について訴訟となり、記録所の勘状により真柄保は無主の国領と認定されてしまう(『壬生家文書』一八九八号)。このため信定はこれを七条院に寄進し、同九年十月には七条院庁下文により真柄荘は御願寺の仁和寺歓喜寿院領に編成された。その預所職は信定の子である侍従信継に伝えられており、また信継の兄弟にあたる仁和寺僧信長は歓喜寿院経済を司る重職である執行を勤めていた。鎌倉末期には真柄荘の領主職をめぐって仁和寺側と領家が訴訟になっている(資2 醍醐寺文書二・三・九・一八・二二・二八〜三四・三六号)。真柄荘の地頭の所見はないが、南北朝期までに当地を苗字とする武士真柄氏が成長した(資2 保阪潤治氏所蔵文書三号)。
 杉前三ケ村(武生市杉崎町)は南北朝期に祇園社造営料所としてみえるが、訴訟の関係文書に中院家が嘉禎元年(一二三五)に臨時朝恩として当村の綸旨を受けたとみえるので、鎌倉期には国衙領であったと考えられる(資2 八坂神社文書六・七号)。西谷荘(武生市西谷町)は平安末期には八条院の管領した安楽寿院領としてみえ(資1 高山寺文書)、のちに大覚寺統に伝えられ、嘉元三年七月亀山法皇は西谷荘と後述する酒井荘などを尊治親王(後醍醐天皇)の母藤原忠子(談天門院)に与え、のちに親王に伝えるべきものとした(資2 亀山院御凶事記二号)。小野谷荘は西谷荘の西隣りにあたり、鎌倉末期には安楽寿院領の一つに編成されていた。
 村国山の南麓には帆山寺があった。帆山寺は吉田郡吉野保とともに、鎌倉末期には延暦寺三門跡の一つ梨本門跡(梶井門跡・三千院門跡)の慧心院領としてみえる(資2 三千院文書一号)。なお七条院は建久二年二月に帆山寺へ法華不断経田三町三段を寄進しており、これは分国主としての行為と判断される(資2 曼珠院文書二号)。
 大屋荘(武生市大屋町)は古代の今立郡大屋郷の名を継ぐ荘園で、少なくとも四郷からなり、鎌倉中期ごろ近衛家実の寵臣惟宗行経が知行した(『続左丞抄』裏文書)。またこのころ家実の兄弟にあたる円満院円浄も当荘内の一村を知行していたが、寛元四年に近衛家の当主兼経は円浄がより大きな荘園を所望したため筑後国三池荘(福岡県大牟田市)と交換させている(『岡屋関白記』同年二月二十二日条)。こうした行為をみると当時近衛家に得分があり、それはのちに春日社八講料所に寄進されたものとみられる。文永九年(一二七二)正月の後嵯峨院処分状では院の御願寺浄金剛院の新法華堂領として円満院円助法親王(後嵯峨院皇子)の知行が認められていたが(資2 伏見宮家文書一号)、そののち大覚寺統に伝わり、昭慶門院領目録では当時後宇多院が沙汰しており、のちにはその第一皇女の達智門院の所領になったことが知られる。
 酒井荘は古代の今立郡酒井郷の名を継ぐ荘園である。正元元年に国守の四条隆親が国内の新立荘園の停止を求めたさい、当荘に関する請文を提出しており、鎌倉中期に成立していた(『経俊卿記』同年五月二十八日条)。鎌倉後期には大覚寺統に伝えられた。その位置については、真柄保に関する記録所の史料に酒井の東に真柄保があったとみえ、また真柄荘の西北端に比定されるところには上境井・下境井という地字も残されているので(資16下 復原図八三)、ほぼ現在の武生市庄町付近に比定される。
 稲吉保(武生市稲寄町)は南北朝期に石清水八幡宮領としてみえるが、それまでの国衙領を継承したものであろう(『石清水文書』)。
 鯖江荘は鎌倉期九条家領だった(資2 宮内庁書陵部 九条家文書一号)。慶長国絵図では当地まで今南西郡とされる(資16上 収載図三)。
 河和田荘(旧今立郡河和田村の一部)は平安末期に中下級貴族藤原周衡の娘の周子が待賢門院に寄進し、これに中納言従二位源雅定の位田を混合して長承三年(一一三四)十二月立券が命じられた荘園である(資1 仁和寺文書)。源雅定は待賢門院に奉仕した村上源氏の一族で、中院流の祖源雅実の子にあたる。平安末期の中院流の家領目録によれば、越前の今北東条と足羽位田がその家領とされている(資2 宮内庁書陵部 久我文書一号)。当荘の成立にも中院家が関与したのであろう。侍賢門院の御願寺法金剛院の懺法堂領とされ、年貢は八丈絹五〇疋と綿五〇〇両だった。前述のように寿永二年(一一八三)検非違使藤原友実が当荘の「地頭下司」と称して乱妨し、翌年の元暦元年(一一八四)四月ころ鎌倉殿勧農使比企朝宗の下知と称して地頭代上座某が荘内に乱入して荘務を張行したとして訴えられている(本章二節一参照)。鎌倉中期ごろ河和田新荘が成立し、これは九条家領となる(資2 宮内庁書陵部 九条家文書一号)。
 別司保(鯖江市別司町)は南北朝期に延暦寺の千僧供領としてみえる(「社家記録」観応元年七月二十五日条、「妙香院宮御参務日記」)。千僧供領とは三千聖供領ともいい、延暦寺の三千衆徒の資縁に充てられるべき基本的寺領である。小礒部保(鯖江市磯部町)は南北朝期に園城寺造営料としてみえ、鎌倉末期までに地頭が置かれたと思われる(資2 園城寺文書二号)。服部荘は古代の今立郡服部郷の名を継ぐ荘園で、今立町の服部谷一帯に比定される。戦国期の明応四年(一四九五)の朽飯八幡神社所蔵の版本大般若経五七二の奥書には「越前国今北東郡服荘藤蔵山朽飯寺」で書写したとみえ、今北東郡に属していた。
 鯖江市川島町にある加多志波神社の鬼面は古くから河島の堂に伝えられたものとされるが、その貞和二年(一三四六)の修補銘には、この面が「越前国今北西郡成得保」にある日吉別所蓮華寺の修正会に用いる備品である旨が記されている。したがってこの付近から今北西郡になるものと判断される(なお慶長国絵図には今北西郡の名がみえない)。当地は河合斎藤系の河島氏の苗字の地に比定されており(『姓氏家系大辞典』)、また蓮華寺も日吉別所だったところからみて山門・日吉社の影響力がうかがえる。
 方上荘(旧今立郡片上村)は平安中期からみえる摂関家領の荘園である。平安末期に鳥羽天皇の摂関を務めた藤原忠実の家政や年中行事を記した「執政所抄」によれば、方上荘の年貢米は摂関政治を始めた藤原良房・基経らの創建になる堂塔や行事に充てられることになっており、当荘が摂関家そのものに結びついていることがわかる。そうした体制は以後も同様で藤原氏の氏長者に伝えられる殿下渡領になった。鎌倉期に進藤氏一族が方上荘の下司としてみえ、しばしば下司職を交替させられたらしく一族の間で所職を争った。この進藤氏は疋田斎藤系の修理少進藤原為輔に始まり、為輔の子成道は「方上四郎大夫」と称している(『尊卑分脈』)。その子成家は鳥羽天皇の滝口に補任されているので(『中右記』嘉承二年十月十二日条)、白河院政初期に成道が当地に勢力を確立して下司に任じられたものと推定される。そして成家の子為範以降は代々検非違使左衛門尉などに任じられる有力な侍の家に成長した。この進藤氏は摂関家とりわけ近衛家に近侍し、為範の曾孫長範は丹生郡鮎川荘と近衛家領丹波国宮田荘(兵庫県西紀町)の預所であった(資2 近衛家文書一号)。
 山本荘は泉・船津両郷からなり、それぞれ古代の丹生郡泉郷・今立郡船津郷の名を継いでいる。現在の鯖江市の中心部に位置する。源実朝の追善供養のために建立された有栖川堂領の一つとして山本荘の預所・地頭両職が寛喜元年に安堵されているが、これは執権北条泰時のとりなしによるもので、当荘についても北条氏の強い力が及んだものと考えられる。弘安九年に執権北条貞時は円覚寺造営料所として山本荘を寄進し、その後いったんは有栖川堂の後身である清浄寿院に返付することが約束されたが、結局円覚寺が知行した(資2 円覚寺文書一〜三号)。なお泉郷には、もと伊勢神宮領の泉北御厨があった(資1 「百練抄」承安四年四月三十日条)。
 鳥羽荘は建久元年に頼朝の奉行人昌寛が地頭職を知行したところで、鯖江市鳥羽町(東鳥羽)に比定される。そののち荘号を得て吉田社領となり、嘉禄年間(一二二五〜二七)に宣旨を下して違乱を停止したことがあったという(「仁和寺文書」)。
 



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