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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第四節 荘園・国衙領の分布と諸勢力の配置
    一 越前の荘園・国衙領と地頭・御家人
      荘園・国衙領の概観
 越前は北陸道随一の大国で、中世には一三郡に分化し、一〇〇余の荘・郷・保が成立した。古代の初期荘園は平安中期ごろまでに実体がなくなり、平安末期から鎌倉期にかけて中世的な荘園・国衙領が形成された(通1 五章、六章三節参照)。越前は京都からも近く、貴族の収入源として期待され多くの公家領荘園が成立した。そして院・女院・平氏などの分国・知行国となり、特に鎌倉初期に五〇年近くの長きにわたって七条院および北白河院の分国となり、また鎌倉末期にも長く大覚寺統の分国となったことは、越前の荘園形成に大きな影響を与えた。
 在地有力武士としては河合斎藤・疋田斎藤系の諸氏が知られ、平安末期から鎌倉初期の荘園や国衙に重要な地位を占めた(通1 六章二節参照)。しかし治承・寿永の内乱や承久の乱でその多くが没落し、鎌倉幕府配下の武士が地頭に補任された。その地頭のなかには、北条氏一族や鎌倉殿勧農使を務めた比企朝宗、守護・在京御家人など幕府中枢関係者がみえる。武士の家や在庁官人、惣社・一宮・二宮・三宮に伝えられた鎌倉期の古文書が少ないため、国衙領や地頭支配の様子を内部から知ることは容易ではない。建治元年(一二七五)書写の鎌倉幕府御家人交名によれば、越前にはただ一人「勘解由左衛門大夫跡」がみえるが(「六条八幡造営注文」)、この人物についても詳らかでない。
 本項では、越前の荘園・国衙領のうち確実に知られるものについて、それらを郡ごとにまとめ、その所在地・成立・荘園領主・地頭などについてみておきたい。原則として鎌倉期までにみえるものに限ったが、後世の史料からうかがえるものもいくらか含めた。現地比定の一つの目安として、現在の行政地名や明治二十二年(一八八九)施行の町村制による旧郡名・村名を挙げた場合もある。後者は叙述の便宜のためにもよるが、地域名として今なお人びとの実生活に少なからざる意義や機能をもっている場合があることにもよる。郡名についても適宜後者による。
図5 中世越前の主な荘園

図5 中世越前の主な荘園



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