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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第三節 承久の乱後の越前・若狭
    三 国人・百姓の反撃
      若狭国御家人の巻返し
 このような領家・百姓たちの地頭に対する反撃に呼応しつつ、承久以後、東国人の地頭の圧力によって苦境に立たされていた若狭の国御家人たちの巻返しも進んでいた。
 そのきっかけとなったのが寛元元年八月三日の幕府の追加法で、もともとこの法は領家の進止下にある御家人の所領について、さほどの誤りもないのに領家により改易されたときには六波羅さらに関東から本所に申し入れることとし、咎のあった場合にも必ず御家人役を勤仕する人に改補することを定めており、領家の圧迫から御家人領を保護する意図で発せられたのであるが、若狭国御家人たちは、これを地頭による御家人領の押領を排除する手がかりにしたのである。
 寛元三年六月、御家人たちはこの法令と、それを若狭の守護代佐分蔵人充てに施行した六波羅探題で若狭守護を兼ねる北条重時の御教書などを根拠にして、幕府に訴状を提出し、元来三〇余人であった国御家人が、地頭の濫妨による没官と領家の押妨による改易によって残るところわずかに一四人という状態のため、課役の負担過重に苦しんでいることを強調した(ノ函一)。
写真27 若狭国旧御家人跡注文案(ノ函一、部分)

写真27 若狭国旧御家人跡注文案(ノ函一、部分)

 この訴訟は宝治合戦などの政情不安のためか進展せず、御家人たちは建長二年六月、「旧御家人跡得替次第」という御家人の所領の状況を列挙した詳細な注文をそえ、再び同じ趣旨の申状を提出した。そのなかで、下文も持たず、禁制に背いて私に没官したといわれる「惣領知行の人」―惣地頭による承久以後の御家人領の押領については前述したとおりであるが、事を領家・本所に寄せて御家人役を勤仕しない人として、この「得替次第」は大嶋次郎・小倉武者所・同刑部入道・山東庄司家恒などの跡を挙げ、承久以前の地頭の押領として東太郎跡を記している(同前)。
 そして御家人たちは、私に没収された地は本主(もとの持ち主)に返して子孫に御家人役を勤仕させること、御家人領の知行を正式に認められている者はその役を勤めること、もしもそれを怠るならば処罰すべきことなどを要求し、翌三年三月には、稲庭(若狭)四郎忠清の押領分として太良保の出羽房雲厳跡と瓜生荘の瓜生新太郎清正跡を挙げ、その「復興」を求めた(同前)。
 忠清自身はこれを認めたものと思われるが、雲厳の場合は「得替次第」が地頭・領家のために分け取られたとしているように、領家の押領に相当する預所名とされた末武名の問題が残っており、これを契機に、六波羅探題で若狭守護となった北条時茂の代官高橋右衛門尉光重と結びついた宮河乗蓮と、預所代定宴の推す稲庭時国の娘で近隣の御家人脇袋範継の妻となった中原氏女とが、それぞれに名主職の権利を主張して争うことになった。
 そして中原氏女側の相伝文書の用意が整わないうちに、守護時茂からの領家への強い申し入れがあり、正嘉二年(一二五八)に菩提院行遍は乗蓮を正式に名主職に補任したが、まもなく中原氏女が訴えて出るに及んで、以後延々と続く末武名の相論が始まることとなる(本章六節一参照)。
 しかしこれによって御家人たちの主張はともあれ実現されたのであり、国の人びとの反撃はここに一つの山を越えたといってよかろう。ただ国の御家人たちが連帯し、その名において訴訟をおこして傍輩の所領の「復興」を求めたこのような動きは、他にあまり例をみないことで、若狭という国の特質の一端を示しているということもできるのかもしれない。



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