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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第三節 承久の乱後の越前・若狭
    三 国人・百姓の反撃
      若狭での領家・百姓の訴訟
 このころ若狭においても、地頭の非法に対する百姓の反発を背景とした領家の訴訟が各地で進んでいた。
 遠敷郡鳥羽荘においては、文暦二年(一二三五)に地頭若狭忠清の代官による茜藍代銭・飼馬雑事・大蒭などの賦課が新儀として停止され(ほ函八)、仁治二年四月二十五日、これらに加えて空佃を非法として訴えた遠敷郡瓜生荘雑掌成安の主張を認めた幕府は、忠清の代官阿門を罪科に処すとともに、忠清自身にも安居院大宮の篝屋および膳所屋の造進を命じたのである(同、『吾妻鏡』同日条)。
 太良荘でも地頭代と百姓たちとの間に緊張が高まっていたが、延応元年(一二三九)十月十三日、忠清は有力百姓の一人浄妙勧心に公文職を充行いその緩和を図る一方(オ函二五)、承久の乱で京方になってこの荘に逃げ下っていた兄の二郎兵衛(中村次郎入道)に、一期の間として太良保馬上免三町二段八〇歩などの所領を去り渡して所務にあたらせるなど(フ函二)、支配体制を整える努力をしている。
 しかしこの年、新たに領家となった菩提院行遍の預所代として真行房定宴が荘に下ってくると、百姓たちは阿門に代わって地頭代となった定西の非法を全面的にとりあげて定宴に訴え、これを六波羅探題の法廷にもち出し、上京した勧心をはじめとする有力百姓たちと地頭代との対決が行なわれた(ほ函八)。
 これに対する探題北条重時(若狭守護)の判決は寛元元年十一月二十五日に下り、先の鳥羽・瓜生荘と同じ茜藍代銭などの課役と、百姓の屋敷の内に「居え置か」れている「親類・下人」に対する在家役は停止し、また前述した地頭代の課したさまざまな名目の科料銭はすべて返却としたうえで、地頭代の改易を命じたのである(同前)。これは百姓たちの完勝といっても決して言い過ぎでなく、この訴訟を支えた預所代定宴に対し、勧心ら有力な百姓たちが「七代に至るまで、不忠・不善を存ずべからず」という起請文を書いたのも(ア函三四)、この時点では誠に自然なことといってよかろう。
写真26 太良荘預所陳状(ア函三四、部分)

写真26 太良荘預所陳状(ア函三四、部分)

 こうして百姓たちに対する立場をしっかりと固めた定宴は、領家と地頭との間の懸案を解決すべく独自な訴訟を六波羅で進めた。これに対し探題重時は寛元四年二月五日、地頭代の飼馬雑事の停止、「公田」に対して地頭は干渉すべきではないとの原則により、勧心名の田地を時安名に分け加えることも停止すべしと若狭忠清に下知し、訴訟自体は関東に送ったのである(ほ函一〇)。
 しかしその翌月、執権経時は病によりその職を弟時頼に譲ったのち、四月に死去した。この代替りにあたって名越光時は前将軍頼経を奉じて時頼を除こうとしたが失敗し、頼経は京都に送還され光時も流罪に処された。越前の守護後藤基綱もこのとき評定衆から除かれているが、守護の立場には変わりなかったと思われる。
 そしてさらに宝治元年(一二四七)六月、時頼は安達氏と結んで、かつて若狭守だったことのある三浦泰村とその一族を滅ぼしたのである。若狭の国人が三浦氏にかけた期待もこれとともに夢となったが、この宝治合戦ののち、探題重時は鎌倉に帰って連署となり、執権時頼とともにこの年の十月二十九日、定宴と地頭代定西との相論について裁許を下した(エ函二、や函一〇)。
 この判決は勧農および斗代の増減は保司(預所)の権限とする定宴の主張を認めたが、検断物については地頭と預所の折半とし、地頭が「借上銭」一貫文を国衙に納めその分を年貢米から六石点じ取ったという定宴の主張、また古帳を地頭が提出しないというその訴えについては、地頭代の反論を認めてこれを退け、公文職についても地頭の進止とし、地頭給三町も「沙汰の限りに非ず」とするなど、定宴にとっては多くの不満を残すものであった。しかし、これによって太良荘における領家の分野は関東の裁決によって確実なものとなったのであり、地頭の干渉の不当が明確にされた「公田」に即して、定宴は新たな支配体制を固めるべく努力を傾けた。
 そして七年後の建長六年(一二五四)十一月、定宴は本格的な検注を行ない、五名(うち一名は二つの半名)の均等名の体制を定めて検注目録を固め(『教王護国寺文書』五九号、や函一〇、は函二)、翌々年の建長八年二月には自ら荘に下って勧農を実施して勧農帳を作成し、この検注にもとづく年貢・公事を徴収したのである(『教王護国寺文書』六〇号、は函三)。
 太良荘に対する東寺供僧の支配はこれで軌道に乗ったが、このころまでに個々の荘園・公領の体制はそれぞれに整備・確定されていったであろう。



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