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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第三節 承久の乱後の越前・若狭
    三 国人・百姓の反撃
      越前での百姓・領家の反撃
 越前においては若狭のように荘園公領制の確立の過程を具体的にとらえることはできないが、承久以後の東国人の地頭の非法に対する反発が、さまざまな形で表面化していたのは若狭と同様であった。
 例えば承久の乱のころ、後鳥羽の乳母藤原兼子―「卿二位」が預所であった足羽郡宇坂荘では、戦後には地頭が荘務を掌握していたが、近衛基通は幕府に申し入れて荘務を預所に取り返すことに成功しており(本章四節一参照)、醍醐寺領大野郡牛原荘でも地頭に対する百姓たちの反発を背景として、領家の反撃が進行していた。
 前述したように、この荘では承久四年(一二二二)に地頭北条時盛の代官の新儀非法が停止され、さらに貞応三年(一二二四)にも前地頭の例を追うべしとの地頭の下知状が下されたともいわれているが、地頭代が真念となってからは先例に反することが多く、荘官・百姓との衝突が目立ち、ついにそれは大きな殺害事件を引き起こすにいたった(資2 醍醐寺文書二五号)。
 もともとは「浪人」で、前公文明豪に召し仕われて南荘に住むようになった太郎別当重円法師は、荘に関する文書を携えていたことから預所によって荘官に補任され、地頭代も文書をもつ重円を又代官として召し仕っていた。ところが重円は本主人である預所方に背き荘官を蔑如したとされ、仁治元年(一二四〇)四月、領家収納使幸暹をはじめ四人の荘官、さらに多くの百姓等は一味同心して重円に夜討ちをかけ、妻子五人とともに殺害するという挙にでたのである。
 これらの殺害人のうち、ある者は逐電したが多くは罪科に処され、関東に召し下されて流罪とされたが、地頭代真念がその跡の田畠一〇〇余町をはじめ家地・二〇余か所の所職のすべてを没収したため、寺領として残るところがないほどの状況だと雑掌盛景は関東に訴えた。そして、この跡に荘官を補任し領家・地頭がともに召し仕うか、あるいは検断の前例により領家に三分の二、地頭に三分の一を分け付すか、いずれかにしてほしいと盛景は主張するとともに、八五か条に及ぶ地頭代の非法を挙げ、そのため百姓はみな逃散するにいたったとして、真念の改易を要求したのである。
 これに対し真念も、検断のことは地頭の進止(支配)、殺害人の跡は没収するのが当然と反論し、逆に百姓たちが地頭代の下人の資財を追捕しその住宅を焼き払ったなどの一五か条を挙げて雑掌と百姓を糾弾したが、結局、寛元元年(一二四三)七月十九日に発せられた関東下知状は、検断については地頭の進止を認め、殺害人跡については器量の仁を荘官に補し、領家・地頭がともに召し仕うこととするとしているが、真念が過法に荘民を煩わせたことは間違いないとしてその罷免を認めた。
 領家と百姓らとの地頭に対する反撃は、ともあれ効を奏したといってよかろう。



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