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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第三節 承久の乱後の越前・若狭
     二 守護の交替と荘園公領制の確立
      山門・日吉社による神人の組織
 なかでも、越前・若狭をはじめとする北陸道諸国に多くの荘・保を保持し、末寺・末社をもつ山門・日吉社の動きは活発で、前述した日吉神人の組織をさらに拡大しようとしていたのである。
 特に若狭では、前述の三方郡御賀尾浦(三方町神子)の加茂安守だけでなく、遠敷郡志積浦の海人等も建久二年(一一九一)に浦の十禅師・客人宮の祭礼のために田畠を寄進するなど、十禅師につながるとともに、おそくとも建長二年(一二五〇)までには青蓮院の寄人となり、廻船人として活動している(資9 安倍伊右衛門家文書一・一四号)。
写真21 十禅師并客人宮祭礼料田畠寄進状(安倍伊右衛門家文書)

写真21 十禅師并客人宮祭礼料田畠寄進状(安倍伊右衛門家文書)

 浦々の海人らの有力者がこのように日吉神人・山門寄人に組織されていたのであるが、承久以後になると、山門・日吉社はさらに他社の神人となっていた人びとにまでその手を伸ばし、神人の組織の拡大を図ったのである。その目標となったのが、やはり海民的な人びとを供祭人として組織していた賀茂社(賀茂別雷社)領で、加賀国金津荘(石川県宇ノ気町・高松町・七塚町)や播磨国安志荘(兵庫県安富町)で住人を日吉神人・山門寄人とした山門は、貞永二年(一二三三)には若狭の賀茂社領遠敷郡宮河荘の住人をも日吉神人とした。これに対し、賀茂社家側は、賀茂社供祭人が他社の神人を兼ねるのは「綸言」に背くと主張してこれを抑制しようとしたが、宮河荘の大谷村・矢代浦の海人たちは従わず、国中に散在する日吉神人もこれに与力・同心して荘内に乱入し濫行するにいたった(資2 堀部功太郎氏所蔵文書一号、座田文書二号)。
 この年三月十三日、賀茂社別当と社家の訴えに応じ、延暦寺政所は若狭国日吉散在神人たちに充てて下文を発してこの乱入・狼藉を停止したが、日吉神人を統括する拒捍使とみられる山僧筑前房宗俊は、大谷村・矢代浦に「神宝」を立て置いてこれを割き取り、そこの荘民に「任符」を与えて日吉神人とするという挙にでた。宗俊は「親類」にあたる山僧宗慶阿闍梨がこの荘の田畠を買い取っていることをも根拠にして、こうした行動を正当化しようとしたが、天台座主の御所での賀茂社司との対決に敗れ、延暦寺政所は天福元年(一二三三)十月二十九日、再び宮河荘充てに下文を発し、座主の使を現地に遣わして神宝を抜き取り、追捕物を糺返させたのである(同前)。
 しかし宗俊はなお狼藉をやめず、宗慶もまた自らの訴訟は社家と同心してのこととして「寺牒」を得て「濫妨」を続けたといわれており、翌二年六月十八日に延暦寺政所は三度も下文を下し、宗俊の身を召し出して重科に処するとともに、宗慶の「濫妨」をも厳しく停止した(資2 鳥居大路文書一号)。
 宗慶はなお大谷村・矢代浦に対する自らの主張を捨てようとしなかったが(後述)、宗俊はここで姿を消し、日吉神人拒捍使は鉾先を変え、新たに新日吉社神人である御賀尾浦の海人に対する働きかけを行なっている。
 嘉禎元年(一二三五)拒捍使代官である山僧大和房は、三方郡倉見荘内の「三川浦」(御賀尾浦)に乱入し、「任符」を海人の住宅に強引に「捨て置き」、これを本社(日吉社)の神人にしようと試みたのである。しかし海人自身がそれを望まず、荘雑掌の訴えに応じて拒捍使充てに発せられた同年十二月十五日の延暦寺政所下文は、倉見荘への日吉神人と拒捍使の乱入を停止した(資8 大音正和家文書六号)。
 このように、矢代浦・御賀尾浦では失敗したとはいえ、拒捍使に統轄された若狭の日吉神人や山僧たちは、相互に連繋しつつ、座主・政所の抑制にもかかわらず執拗にその組織の拡大に努め、三方郡食見が青蓮院領、安曇氏を刀とする海人集団の根拠地である三方郡小河浦も日吉十禅師社領あるいは山門東塔北谷虚空蔵尾領となるなど(同一九・二四号)、新たな所領を加え、若狭の海辺に強力なネットワークを形成したのである。
写真22 三方郡小河浦

写真22 三方郡小河浦
 一方越前についても、南条郡の加恵留保・新通(新道)や丹生郡太田野保などの日吉社領をはじめ多くの山門領荘園があり、前述したような日吉大津神人の活発な活動がみられたが、特に日吉神人を兼ねた気比神人が、本社神人をはじめ、敦賀郡の大縄間浦・沓浦・手浦の三か浦や丹生郡の大谷浦・干飯浦・玉河浦・蒲生浦、さらに能登・越中国奈古浦(奈呉浦、新湊市放生津)・越後国曾平・佐渡にまで分布し、和布・苔・丸蚫(丸鮑)・塩鮨桶・鮭などを貢進していることに注目しておく必要があろう(本章四節二参照)。
 このように、日吉神人や気比神人となった海民の有力者の海上交通・商業・金融・漁撈のネットワークは日本海に広く及んでいたが、こうした山門・日吉社の圧力に抗しつつ、賀茂社は先の宮河荘矢代浦を、鴨社(賀茂御祖社)も三方郡丹生浦や越前の丹生郡志津荘などを供祭人の根拠地として確保し、それなりに日本海の海上交通に影響力を及ぼしていた。また先の倉見荘御賀尾浦の新日吉社神人、そしておそらく大飯郡青保に根拠をもっていたとみられる春宮御厨供御人などの立場も、この時期に確立したものと思われる。こうして神人・供御人制は若狭・越前においても軌道にのったといってよかろう。



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