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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第三節 承久の乱後の越前・若狭
     二 守護の交替と荘園公領制の確立
      国人・百姓を圧迫する守護・地頭
 守護の交替の波動は、さまざまな形で国人・百姓の上に及んでいた。若狭では、佐分四郎入道の所領大飯郡佐分郷内の恒国名田畠が「寛喜の後」に守護方に押領されたといわれており(ノ函一)、このとき北条氏の所領になったものと思われる。また遠敷郡太良保でもこのころ、地頭若狭忠清の非法が顕著になっていた。
 すでに忠清は太良保だけでなく、遠敷郡の瓜生荘・鳥羽荘などにおいても、茜藍役の代銭、飼馬の雑事、大蒭の賦課、段別二石を収取する「二石佃」―空佃を百姓たちに割り当て、これに反発する百姓たちとの摩擦を引き起こしていたが、寛喜年間(一二二九〜三二)のころから、太良保の平民百姓たちの中心である勧心・時沢・真利と正面から衝突したのである。
 忠清の代官は地頭政所近辺の百姓助国の畠地を押さえ取り、これを非法として訴えた勧心たちに対し次つぎに科料を課して圧迫を加えた。地頭代に召し篭められようとしたため逃亡した助国の跡の佃米二石を三人百姓が盗み取ったと言いがかりをつけ、実際には返抄(請取状)があるのに三人から一一貫文の科料を責め取ったのをはじめ、隠田を理由に勧心に一〇貫五〇文、その子息藤次冠者にも地頭の畠の大豆を刈り取ったとして一貫文、時沢の子重弘が乞食法師に道を造らせ稲を与えたとして二貫文、不必要の井水を落としたのを「水盗人」と決めつけて時沢の姉聟延員に地頭代が一貫五〇〇文、守護使が五〇〇文、地頭又代官の下人の包久にも地頭代は三貫文、守護使が一貫文の科料を課したのである。さらに地頭代は時沢・貞国・為安に盗人を押して預け、これを逃がしたとして各一貫文、後藤次真恒が市庭で銭二〇文を求めたとして一貫一〇〇文の科料銭を懸けており、まさしく洪水のような科料が百姓たちの上に襲いかかったのである(ほ函八)。
写真20 六波羅裁許状(ほ函八、部分)

写真20 六波羅裁許状(ほ函八、部分)

 しかも百姓たちが逃がしたと地頭代の言っている「盗人」は、荘内で「乞食」をし、地頭の正作の稲四、五把を盗み取ったとされた「盲目法師」のことで、地頭代は、この保に移住してきた間人で旅人の宿をしている大門仗の家に法師が寄宿したとして、「盗人」の「寄宿家主」となった罪を問うて仗夫妻と召仕いの小姨の三人から「引文」を責め取って胡却してしまった。ところが実際には「盲目法師」はすでに追放され、百姓に預けられたのはたまたま仗のところに来ていた旅人だったのだと、百姓たちは地頭代の非法を糺弾している(同前)。
 このように、地頭は百姓のわずかな「罪科」にかこつけて科料銭を課し、それを弁償できないときには馬を代わりに取り、さらにはその人自身を「身曳」して売却したのである。ここに、兄忠時の失脚によって弱体化する危険のある自らの立場を強化しようとした地頭忠清の姿勢を読み取ることも不可能ではない。
 しかしむしろこの衝突の背後には、東国出身の地頭・地頭代と、西国の百姓の生活・習慣との摩擦があったとみるべきであろう。科人を百姓に預けるのも、自らの政所の近辺の畠地を館の延長として押さえるのも、反抗する百姓の「咎」に科料銭をかけるのも、東国の地頭にとっては当然のことであった。
 これに対し、一〇貫文前後の科料銭を負担しきる経済力をもち、それぞれ自らの馬を飼っているような西国の百姓は、たやすく従おうとはしなかったのである。それは地頭代が「百姓の習、一味なり」といったような、百姓どうしの横の強い連帯に支えられており、国人もまた同様に、姻戚関係などで結ばれつつ「傍輩」として連帯し、東国人の守護・地頭に対する抵抗をやめなかった。
 そしてこうした国人・百姓の抵抗を背景として、王朝側の貴族や寺社は承久の敗戦による劣勢を回復すべく、新たに積極的な動きを進めていたのである。



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