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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第三節 承久の乱後の越前・若狭
     二 守護の交替と荘園公領制の確立
      島津忠時の「失脚」
 若狭守護島津忠時は嘉禄三年(一二二七)十月に父忠久から越前守護職を譲られ、両国の守護を兼ねることになったが、早くも翌々年の寛喜元年(一二二九)在京のとき、陰陽頭を殺害したため、所領を没収されたといわれている(「税所次第」)。当時の陰陽頭は安倍泰忠であるが、殺害された事実はなく、なにかの誤りがあるのではないかと思われ、「守護職次第」は忠時がその前年の安貞二年(一二二八)まで若狭の守護であり、この年に北条泰時の子時氏と交替したとし、その理由にはふれていない。
 また今富名は寛喜元年に時氏の子経時に与えられ、翌二年は時氏、同三年に再び経時の所領となり、以後「御内御領」(得宗領)となったとされており、忠時の交替が安貞二年であったのか、寛喜元年であったのか、判然としないのである。
 しかも『吾妻鏡』安貞二年五月十六日条には、後藤左衛門尉基綱が越前国流人前宰相中将実雅の死を幕府に報告したことが記され、その後に「基綱は守護人なり」としている。
 若狭と同じころ、島津忠時は越前の守護をも交替したことになるが、ただこれについて島津氏ははるか後年の元亨元年(一三二一)九月六日付の島津道義(忠家)の嫡子貞久充ての置文で「ゑちせんの国すこしき(守護職)かはりの事」を幕府に訴えて、その替わりを「申給へ」としているように(『島津家文書』)、長くその替わりを請求すべき権利を留保していたのであり、安貞ごろの交替が罪科による没収であったとは考え難い。
 また若狭の場合も、忠時の交替後、その母で忠季の後家若狭尼が今富名領主となった時氏・経時の代官となってその立場を保っており(「税所次第」)、忠時の失脚が決定的であったとはいい難いものがある。
 しかし少なくとも寛喜元年には、忠時自身は若狭から姿を消し、その所領一六か所の地頭職を没収されたことは間違いないところで(同前)、後年の状況からみて、遠敷郡国富荘・津々見保・武成名・西郷は伊賀氏、三方郡倉見荘は二階堂氏、三方郡前河荘は殖野(上野)為時がこれに代わって地頭に補任された。
 ただ若狭忠清は兄の事件とは関わりなく九か所の所領をそのまま保持しているが、この寛喜の「政変」を境に、それまで若狭国に圧倒的な勢威をふるっていた若狭島津氏の力は大きく退潮し、これに代わって守護職・税所・今富名を掌握した北条氏―得宗、また耳西郷の地頭でもあった伊賀氏が、この国の中心的な勢力として姿を現わしてきた。またこの「政変」の大飯郡への影響は小さく、同郡の本郷を父朝親から譲られ、貞応二年(一二二三)に関東下知状によってこれを安堵された源有康(本郷氏)がその立場を保っている(資2 本郷文書一号)。
 一方、若狭と同じく守護の交替のあった越前においても、こうした変動が多少ともあったに相違ないが、それをうかがうことはできない。



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