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 第一章 武家政権の成立と荘園a国衙領
   第三節 承久の乱後の越前a若狭
    一 承久の乱と御家人の動向
      戦後の越前
 越前では河口荘の荘官が京方となり、武蔵局が地頭に補任され、前述したように没収地となった生部荘a久安保重富の地頭職が勲功の賞として島津忠時に与えられた。
 また遠江入道(北条時政)、山城入道(二階堂行政)、土佐冠者希義の流れをくむかとみられる土佐三郎広義と、幕府の要人が相ついで地頭職となっていた大野郡牛原荘では、広義が京方に立ったために、新たに北条時房の子時盛が地頭に補任された(資2 醍醐寺文書二〇a二五号)。
 時盛は村々に地頭代九人、惣追捕使と公文を五人、惣従類一〇〇余人を荘に入部させたといわれ、百姓たちはこれらの人びとに対する「供給」(もてなし)に追われ、「一庄滅亡」といわれるほどの状況となったのである。こうした新儀非法を訴えた醍醐寺の訴状に応じて承久四年四月五日に発せられた関東下知状は、地頭得分については行政a広義の例に任せ、代官は南方一人、北方一人とすることなどを定めているが(同一九a二〇号)、おそらくこうした地頭の新儀非法は越前でも各地におこっていたに相違ない。ただ若狭のようにその実情を詳しく知ることはできないのである。



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