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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第三節 承久の乱後の越前・若狭
    一 承久の乱と御家人の動向
      所領を奪われる若狭国御家人
 戦後、歓喜寿院領を含む七条院の所領はすべていったん幕府に没収され、まもなく改めて返却されており、建久九年(一一九八)に立券されていた今立郡真柄荘はおそらくこのときに旧に復したのであろうが(資2 醍醐寺文書一八号)、立券の手続きの完了していなかった遠敷郡太良荘は国衙に転倒され、再び太良保に戻った(ヱ函四)。
 そうした状況のなかで戦後新たに地頭となった若狭忠清が保に入部し、稲庭時国の代官として在荘した公文代禅珍を搦め取ろうとしたため、禅珍は逃亡し、時国自身も「逐電」といわれるような状況になった。忠清は新地頭として、前地頭の代官時国の所領の進止を主張したのであろう。この保の馬上免畠七町余・薬師堂寺用田一町二段・公文職など、雲厳から領家あるいは時国に継承されていた所領のほとんどを「押領」したのである(ホ函五)。
 大飯郡の青奥次郎入道跡も、「承久乱逆の最中より」地頭に押領されているが(ノ函一)、これも青郷の地頭代だった時国がこの人から継承した所領を、太良保と同様に地頭が押領したのであろう。東国人の地頭の立場に立てば、かつての稲庭時定や前地頭の家人・郎従の立場にある国人の所領は、新地頭として新たな主人となって「惣領知行」すべき自らの所領となるのは当然のことであった。木津平七則高・薗部刑部丞らの所領が、やはり「承久乱逆」のさい、おそらく大飯郡立石荘の地頭によって押領されたのも、佐分四郎入道時家の青保公文職を佐分郷地頭の島津忠時が「承久已後」に押領したのも(同前)、同じ理由からであったろう。
写真19 大飯郡青郷付近

写真19 大飯郡青郷付近

 遠敷郡国富荘においても、地頭となった忠時の代官時永は戦後、信家らの名田が没官地であるとの「鎌倉殿御下文」があると称して、これをその所領とし、「公家長日御祈用途」「官御祈願米」を追捕し取った。これに対し承久三年閏十月、官御祈願行事所は荘に充てて下文を下して、武士の新儀狼藉を停止した宣旨とそれを施行したたびたびの六波羅下知状に任せ厨家使則吉とともにこれらの用途を催促すべしと命じているが(『壬生家文書』三一八号)、ここで信家らの名田といわれているのは、後年、所領を地頭に押領されたと御家人たちの訴えた国富左近将監の所領であろう(ノ函一)。
 また安賀土佐法橋の所領に「承久の比」地頭が補任されたのは、この人が京方に立ったためであろうが、倉見三仕房の所領が地頭に押領され、同平次郎も「承久已後、博奕の質と号して」地頭のために所領を押領されたといわれているのは(同前)、島津忠時による先のような立場からの「押領」とみてよかろう。
 国御家人の所領は、このようにして新たな主人として勝ち誇る東国の地頭たちに押領されていったので、承久の戦争における王朝―西国軍の敗北により、若狭の住人たちの独自な秩序は一時的にせよ大打撃を受けたのである。



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