戦後、歓喜寿院領を含む七条院の所領はすべていったん幕府に没収され、まもなく改めて返却されており、建久九年(一一九八)に立券されていた今立郡真柄荘はおそらくこのときに旧に復したのであろうが(資2 醍醐寺文書一八号)、立券の手続きの完了していなかった遠敷郡太良荘は国衙に転倒され、再び太良保に戻った(ヱ函四)。
そうした状況のなかで戦後新たに地頭となった若狭忠清が保に入部し、稲庭時国の代官として在荘した公文代禅珍を搦め取ろうとしたため、禅珍は逃亡し、時国自身も「逐電」といわれるような状況になった。忠清は新地頭として、前地頭の代官時国の所領の進止を主張したのであろう。この保の馬上免畠七町余・薬師堂寺用田一町二段・公文職など、雲厳から領家あるいは時国に継承されていた所領のほとんどを「押領」したのである(ホ函五)。
大飯郡の青奥次郎入道跡も、「承久乱逆の最中より」地頭に押領されているが(ノ函一)、これも青郷の地頭代だった時国がこの人から継承した所領を、太良保と同様に地頭が押領したのであろう。東国人の地頭の立場に立てば、かつての稲庭時定や前地頭の家人・郎従の立場にある国人の所領は、新地頭として新たな主人となって「惣領知行」すべき自らの所領となるのは当然のことであった。木津平七則高・薗部刑部丞らの所領が、やはり「承久乱逆」のさい、おそらく大飯郡立石荘の地頭によって押領されたのも、佐分四郎入道時家の青保公文職を佐分郷地頭の島津忠時が「承久已後」に押領したのも(同前)、同じ理由からであったろう。 |