この戦争で、越前・若狭はそれぞれ守護の交替を含む大変動を経験することになった。
越前については、守護大内惟信が京方の中心人物となって没落した結果、これに代わって七月十二日に島津忠久が守護に補任された。それは幕府方の勝利の定まったのちのことであるが、これよりさき五月十三日、忠久は足羽郡の東郷荘地頭職を「勲功賞」として与えられており(『島津家文書』)、あるいはこれもこの戦争を前提とした補任であったのかもしれない。
ついで八月二十五日、忠久の子島津忠義に勲功の賞として足羽郡生部荘ならびに久安保重富の地頭職が与えられているが(同前)、これは大内惟信の没収跡であろう。
また大野郡牛原荘の地頭土佐広義も京方となったので、これに代わって北条時房の子時盛が地頭に補任された(資2 醍醐寺文書二〇・二五号)。さらに坂井郡河口荘についても、いったんは地頭職が停止されていたにもかかわらず、承久三年十月十四日の興福寺別当雅縁の書状によって、戦後は武蔵局が地頭となっていることを知りうる(資2 福智院家文書一号)。しかしこれを不法とした興福寺の訴えによって、これはまもなく停止されたものと思われる。 このように守護の交替によって、おそらく国衙領に即して大きな変動があったものと推測されるが、知られている限りでの承久の乱後の越前における京方の動きは、東国の地頭にむしろ一、二みられるにとどまり、御家人については必ずしも顕著とはいえない。越前国御家人は建保二年(一二一四)に大番役を勤仕したこともあって(資2 醍醐寺文書一一号)、この戦争に巻き込まれることが少なかったのかもしれない。 一方若狭の場合、守護若狭兵衛入道忠季とその子三郎兵衛尉忠時は、泰時の率いる東国軍のなかにあって宇治川での激闘に加わり、その手の者は三人の京方を討ったが、忠季自身は宇治橋および宇治川渡河のさいの戦いで六月十四日に討死した(『吾妻鏡』同年六月十八日条)。先の大内惟信をはじめ、西国の守護となった関東御家人が後鳥羽の催促に応じて西国軍―京方に加わったのに対し、若狭守護忠季はこのように関東に忠誠を示したのである。
戦後ただちに、泰時が忠季の跡を後家若狭尼に安堵するとともに、子息忠時を守護とし、若狭国中の没官領を与えることを約束しているのは(「税所次第」、『島津家文書』)、もとよりこのような忠季の勲功に酬いるためであった。ただ、忠季の二男兵衛二郎は在京していて京方になっており、戦後は兄忠時を頼って若狭に逃げ下ってきた(リ函四五)。
こうして忠季の跡を継承した忠時は、正式に守護職になるとともに、今富名・前河荘など、先に忠季の所領が一時的に没官されたとき二階堂行光に与えられたことのある遠敷・三方両郡一六か所の地頭職となり(「守護職次第」)、同じく中条家長が一時期保持した太良保・瓜生荘をはじめとする遠敷郡九か所の地頭職は、弟の四郎忠清に与えられた(ほ函八)。 |