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 第一章 武家政権の成立と荘園a国衙領
   第三節 承久の乱後の越前a若狭
    一 承久の乱と御家人の動向
      東国軍の勝利と入京
 東海道a東山道の軍勢を率いる泰時a時房は六月七日、軍議のすえ勢多a宇治a芋洗a淀渡などにそれぞれ軍勢を派遣することとし、東国軍はさらに京都に向かって進んだ。東国軍迫るとの報に狼狽した後鳥羽は土御門a順徳らとともに比叡山に向かい、西坂本の梶井御所に入った。
 一方、北陸道を西に進む名越朝時らの軍勢は、越後国の人びとを催しつつ越中国般若野荘(富山県砺波市a高岡市)まで到着したところ、六月八日に到来した義時追討の宣旨に応じて京方となった、宮崎a糟屋a仁科などに加賀や越中の住人林a石黒氏の加わった軍勢と衝突し、ここでも東国軍は「官軍」を雌伏させ、さらに西に進んだのである。ただ越前a若狭の人びとの動向は明らかでない。
 そのころ京都の周辺には東国軍を迎え撃つべく軍勢が配置され、十三日から十四日にかけて宇治a勢多辺を主戦場に東国軍と西国軍の死闘が展開された。結局この戦闘は宇治川を渡河することに成功した東国軍の勝利に帰し、京方の著名な武将は相ついで戦死し、十五日に東軍は入京する。
 泰時a時房は六波羅の館に駐留し、これ以後、鎌倉の京都における出先機関としての六波羅探題となっていく。戦後、関東はこの戦争についての京方の責任を厳しく追究し、後藤基清a佐々木広綱ら関東御家人で京方に立った者や藤原光親a一条信能などの張本の公卿を処刑し、三上皇を配流することとして、後鳥羽を隠岐、順徳を佐渡、土御門を土佐に流した。
 そして天皇(九条廃帝、明治になって仲恭という)を廃し、新たに後堀河を即位させた。東国の王権はここに京都の王権との戦争に完勝し、以後決定的な優位に立つにいたったのである。



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