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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第三節 承久の乱後の越前・若狭
    一 承久の乱と御家人の動向
      東国軍と西国軍の衝突
 承久三年(一二二一)五月十四日、後鳥羽上皇は西園寺公経・実氏父子を弓場殿に召し篭め、翌十五日、京都守護の一人伊賀光季を攻撃し、東国に対する戦争の火蓋を切った。京都守護の他の一人大江親広はすでに後鳥羽の召喚に応じており、光季はこれらのことを鎌倉に報じたのち、後鳥羽の軍勢と戦って討死した。
 光季の使が鎌倉に到着した十九日には、北条義時追討の宣旨を所持した後鳥羽の使押松丸が葛西ケ谷(神奈川県鎌倉市)の辺に姿を現わし、後鳥羽への内応を勧める三浦義村の弟胤義の義村充ての書状も到来して、関東は騒然となった。しかし義村は使を追い返し、この書状を義時のもとに持参して幕府への忠誠を誓った。後鳥羽の目算はここでまず大きくはずれた。
 ここにいたるまで、実朝が暗殺されたのち、承久元年に西園寺公経の外孫藤原道家の子で二歳になったばかりの頼経が鎌倉に迎えられて関東の主となっていたが、幼いため政務を掌握していた頼朝の妻北条政子は、この関東の危機にあたり、御家人たちを集めて頼朝以来三代の将軍の恩を切々と説き、その決断を促した。
 多くの御家人たちはこれに応じ関東への忠誠の意を表わしたが、義時・義村や、大江広元・安達景盛らの宿老たちは座して京方―西国軍の襲来を待つのを不利と判断し、ただちに大軍を西進させることに決し、二十二日に北条泰時はわずかに一八騎を率いて京都に向かって出発した。これに続き、二十五日にはその泰時と北条時房が大将軍となって率いる東海道の軍勢、武田信光・小笠原長清らの率いる東山道の軍勢、そして北条朝時が大将軍となり結城朝広・佐々木信実とともに率いる北陸道の軍勢が、まさしく雲霞のごとくそれぞれ京都に向かい、大挙して西進を開始した。
 越後の守護はこれより先、北条義時であったと推定されるが、名越氏の祖である朝時はここで父義時の地位を継承するとともに、北陸道諸国に大きな影響力を及ぼすことになる。この朝時に従って上洛しようとした佐々木信実は、伴類六〇余人を率いて越後国加地荘(新潟県新発田市・加治川村)願文山に篭もった阿波宰相中将藤原信成の家人酒勾八郎義賢の抵抗を撃破した。これが天皇の命で動員された「官軍」に対する、東国軍の最初の勝利といわれている。
 このように各方面から破竹の勢いで西進する東国軍の動きをみて、京都の朝廷の動揺は著しかった。しかし六月三日、ともあれこれをほぼ木曾川・杭瀬川の線でくいとめるべく、朝廷は摂津・伊賀・伊勢・美濃・越前・丹波の六か国の守護を兼ね、これら諸国の武士を動員しえた大内惟義の子息大夫判官惟信をはじめ、在京の有力御家人や美濃・尾張の御家人など、単に院方の武将だけでなく多くの西国の御家人を動員し、大井戸渡・鵜沼渡・池瀬・摩免戸・食渡・洲俣などに配備した。
 まさしくこれは東国軍と西国軍の正面からの衝突であったが、六月五日から六日にかけての大井戸・摩免戸などでの合戦の末、東国軍は西国軍を完全に撃破し、「官軍」は敗走・逃亡したのである。



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