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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
     三 守護と地頭・御家人の動向
      承久の乱の前夜
 このように大内氏が守護の職権を大きく越える裁判権までを認められたのは、このころ、鎌倉幕府の力を押さえ、在京御家人たちを自らの武力にしようとする後鳥羽上皇の戦略的意図による動きでもあった。実際、在京御家人の最有力者、源氏の長老として、建暦二年には九か国の防鴨河役の徴収と堤の修理、建保二年には焼亡した近江園城寺の唐院ならびに堂舎僧坊の造営の中心となり、畿内近国六か国の守護である惟義を味方に引き入れることは、討幕を企図する後鳥羽にとって、その成功のための必須の条件であった。
 しかし最晩年は修理権大夫に任ぜられた惟義は承久元年、実朝の暗殺された任右大臣の拝賀には姿をみせているが、それを最後に史料にみえなくなり、死去したものと考えられ、代わって子息惟信がその跡を受け継いで登場する。
 そして実朝の死後、後鳥羽の子供を将軍に迎えたいという北条政子の申し出を「日本国ヲ二ニ分ル事」として拒否した後鳥羽は、逆に摂津国長江・倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭職改補を北条義時に拒否され、大内(内裏)守護の源頼茂を討つなど、東国の王権を打倒すべく本格的に動き始めた。
 おそらく後鳥羽のこうした動きとも関わりがあると考えられるが、このころ後鳥羽の母七条院は寄進を受けた荘園を相ついで建保二年に建立した歓喜寿院の所領にしている。まず建保六年に越前の丹生郡織田荘は七条院庁下文と国司庁宣によって歓喜寿院領として立券され(資2 妙法院文書一号)、ついで承久三年四月一日、今立郡真柄荘が官宣旨によって同院領とされ、勅院事・大小国役を停止された(資2 醍醐寺文書一八号)。
写真17 後鳥羽上皇画像(「天子摂関御影」、部分)

写真17 後鳥羽上皇画像
(「天子摂関御影」、部分)

 一方若狭では、建保四年に太良保を支配するようになった源兼定は、年貢の一部を歓喜寿院の修二月雑事に充てることとし、これを七条院領の荘園にして自らは領家となったのである。このころ兼定の子家兼に仕え、家人として在京するようになった稲庭時国は、こうして荘園となった太良荘の現地を母中村尼にゆだね、この年二月に中村尼は兼定の政所下文によって公文職に補任され、三町の公文給を保証された(ア函一五、京函九)。
 兼定はまもなく六月に死去するが、領家職を継承した家兼は代官土佐殿・公文中村尼に太良荘の検注を行なわせ、翌五年九月八日に検注目録が作成されている(や函一〇)。
 太良荘はここで初めて荘園としての形を整え、公事負担の義務を負う一二の百姓名が結われ、佃・公文給などの除田も定まったが、この時点では官物はなお国衙に納められ、領家の収入は加徴米・勘料米のみにとどまったのではないかと思われる。
 そこに承久二年、この太良荘を含む遠敷郡九か所の地頭職に、中条家長に替わって若狭忠季が再び還補されてくる(「守護職次第」)。おそらく守護の地位も回復し、若狭での勢威を取り戻した忠季は、太良荘の馬上免田畠七町余を押領したとして、公文中村尼の代官禅珍に訴えられるなど早くも摩擦をおこしているが、こうした事態に対し翌三年三月、七条院庁は太良荘を正式に歓喜寿院領として、検非違使・諸院宮・諸司・国使などの乱入、勅事・院事以下大小国役を停止すべきこととを太政官に申請し、先の真柄荘と全く同じ四月一日、これを認める官宣旨が下った(ウ函二三)。
 太良荘はここで半不輸の状態を脱し、立券荘号の手続きを終えようとしていたが、その一か月後、後鳥羽は北条義時追討に踏み切り、京都の王権と鎌倉の王権は正面から衝突し、東国・西国戦争ともいうべきいわゆる承久の乱のなかで、若狭・越前を含む西国諸国は大きな変動をこうむることとなったのである。



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