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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
     三 守護と地頭・御家人の動向
      若狭の国人の動向
 若狭忠季の立場の動揺によって、東国の幕府の圧力が多少とも弱まった間隙をぬって、若狭の国人たちは、それなりに自らの立場を回復し、新たにこれを固めるためにさまざまな道を模索していた。
 建久の稲庭時定の没落とともに所領を失っていた稲庭時通は、遠敷郡西津荘の古津を苗字として古津三郎時通を名乗り、おそらくその子息ではないかとみられる古津新太郎時経や、大飯郡岡安名の領主岡安右馬大夫時文とともに、税所となった若狭忠季のもとでかわるがわる税所代となっている(「税所次第」)。
 このように、東国から入ってくる地頭の代官となってその立場を保つ道が、新たな事態に即応して国人たちの選択した一つの道であり、稲庭時定の子息時国も大飯郡青郷地頭の代官となっていた(マ函六)。
 しかしそれだけでなく、時国は「年来、相親」しんできた「傍輩」ともいうべき遠敷郡太良保公文丹生出羽房雲厳の苦境を支えつつ、その所領を継承し、国における立場をさらに強化しようとした。承元二年(一二〇八)十一月、保司大夫進や薬師堂を凱雲から譲られたという延暦寺東塔東谷住侶刑部卿法橋との訴訟で、不利な立場に立った雲厳と時国は親子の契約を結び、その養子となって、雲厳の「先祖相伝の所帯」である太良保の末武名・薬師堂馬上免、および凱雲の所従のすべてを譲られたのである(ぬ函三)。
写真13 出羽房雲厳譲状案(ぬ函三)

写真13 出羽房雲厳譲状案(ぬ函三)

 このころ時国は、太良保をはじめとする若狭九か所の地頭中条家長とも「縁者」といわれるほどの関係を結んでおり、そうした力を背景に、たまたま保司が知行国主藤原実宗の子息で、刑部卿法橋と仲の悪い西塔住侶大炊殿法印公暁となった機会をとらえ、雲厳を支えて末武名の権利の一部を回復することに成功した。これに感謝した雲厳は翌三年二月、改めて時国に対する譲状を書き、自分の「存生の間」は先の所領を預かることを条件に訴訟の解決を時国に依頼し、今後「愚身のことは御成敗たるべし」と、時国の従者となることを約束した(ア函八)。
 こうして時国は太良保の「開発領主」丹生氏の所領のすべてを継承することに成功し、実宗に替わった知行国主松殿藤原基房に太良保「下司職」と雲厳の所領に対抗する安堵の国司庁宣を求め、その申状に外題を得たうえで、建暦元年に目代橘氏の署判を加えた下文によって正式に同保公文職に補任された(ア函一五、は函一)。
 こうして国での立場を強めた稲庭時国は、地頭中条家長の代官となり、さらに建保四年(一二一六)に太良保を支配するようになっていた前治部卿従三位源兼定の子息土御門少将家兼の家人にもなって、在京するようになったのである。



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