若狭忠季の立場の動揺によって、東国の幕府の圧力が多少とも弱まった間隙をぬって、若狭の国人たちは、それなりに自らの立場を回復し、新たにこれを固めるためにさまざまな道を模索していた。
建久の稲庭時定の没落とともに所領を失っていた稲庭時通は、遠敷郡西津荘の古津を苗字として古津三郎時通を名乗り、おそらくその子息ではないかとみられる古津新太郎時経や、大飯郡岡安名の領主岡安右馬大夫時文とともに、税所となった若狭忠季のもとでかわるがわる税所代となっている(「税所次第」)。
このように、東国から入ってくる地頭の代官となってその立場を保つ道が、新たな事態に即応して国人たちの選択した一つの道であり、稲庭時定の子息時国も大飯郡青郷地頭の代官となっていた(マ函六)。
しかしそれだけでなく、時国は「年来、相親」しんできた「傍輩」ともいうべき遠敷郡太良保公文丹生出羽房雲厳の苦境を支えつつ、その所領を継承し、国における立場をさらに強化しようとした。承元二年(一二〇八)十一月、保司大夫進や薬師堂を凱雲から譲られたという延暦寺東塔東谷住侶刑部卿法橋との訴訟で、不利な立場に立った雲厳と時国は親子の契約を結び、その養子となって、雲厳の「先祖相伝の所帯」である太良保の末武名・薬師堂馬上免、および凱雲の所従のすべてを譲られたのである(ぬ函三)。 |