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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
     三 守護と地頭・御家人の動向
      比企氏の没落
 幕府の創始者としてカリスマ的権威をもっていた頼朝の死後、東国では不安な政情が続き、将軍頼家の立場は全く不安定であった。それは建仁三年(一二〇三)三月二日、舅として頼家を支えてきた比企能員が、頼家の弟実朝を擁して比企氏に対抗する北条時政・政子によって誅殺されたことによって決定的となり、頼家は伊豆に流され、実朝がこれに替わって将軍となった。
 この政変―北陸と深い関わりのあった比企氏の没落は、若狭・越前を直撃した。能員の妹を母とする若狭忠季はこの事件の縁坐によりその所領のすべてを没収され、後年、越前の守護となる忠季の同腹の兄島津忠久も同様の処分を受けた。越前における比企氏の所領であった今立郡河和田荘・吉田郡志比荘も、当然没収されたであろう。
 そして若狭では、七年前に守護となった忠季はその地位を失い、同年十二月二十二日、その所領のうち今富名・国富荘・前河荘などの遠敷・三方両郡一六か所は二階堂行光に、太良保・瓜生荘などの遠敷郡九か所は中条家長に与えられた(「守護職次第」)。このうち、行光の一六か所は翌元久元年(一二〇四)八月二十九日忠季に返され(同前)、税所を再び掌握した忠季は若狭における中心的な立場に、ある程度は復活することになるが、家長の九か所はなおそのままであり、守護についても、家長であったのか、あるいは一時期北条義時が掌握したのか、忠季自身がその地位に復したのか明らかでない。いずれにせよ、建久当時の忠季の若狭における圧倒的な立場が、これによって崩れたことは間違いない。
 一方越前においても、このときに守護が交替して大内惟義が守護となったのではなかろうか。惟義の守護在職を示す初見は「天台座主記」建暦三年(一二一三)五月四日条に「守護惟義朝臣代官重頼」とある記事であるが、おそらくその補任はこの時期までさかのぼりうるのではなかろうか。のちに大内氏に替わって守護となる島津忠久が比企氏の姻戚だったことを考えると、この時点まで比企氏の関係者、あるいは忠久その人が若狭の忠季と並んで守護であった可能性もありうるであろう。
 もとよりそれは全くの推測にとどまるが、ここで越前は義光流の源氏、武蔵守義信の子息として鎌倉幕府内部で高い地位をもち、相模守・駿河守となる一方、摂津・伊賀・伊勢・美濃・丹波の諸国守護を兼ね、在京御家人で検非違使ともなった大内惟義の支配下に入ることとなった。



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