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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
     二 稲庭氏の没落と東国地頭の入部
      稲庭氏の没落と守護若狭氏
 しかしこの交名が鎌倉に注進された直後の同じ年の八月、突如若狭国の中心人物ともいうべき稲庭時定は関東に召し下され、頼朝の勘気にふれたとして所領のすべてを没収された(「税所次第」)。後年、その理由は時定の孫時方の家子が時方の郎従を殺害したためなどといわれているが、この時定の突如の没落が極めて政治的な理由によることは推測してまず間違いあるまい。
 いったん召し篭められた時定には、「渇命所」として遠敷郡西津荘が返されてはいるが(同前)、同じときに時定の一族稲庭時通・同時方・和久里時継・時直(苗字未詳)など、中原氏一門の在庁たちが一挙その所領を没収されており(ユ函一二)、若狭の国人たちの秩序は、東国の「王権」―幕府の干渉による大きな変動を余儀なくされるにいたったのである。
写真12 遠敷郡西津荘

写真12 遠敷郡西津荘

 この九月一日、頼朝は先の津々見忠季に時定の「所知所帯」を沙汰すべきことを命じ(ヒ函二七六)、遠敷・三方両郡の時定跡の所領二五か所を忠季に与えた。忠季はここで国御家人を統轄する若狭守護となったとみてよかろう(「守護職次第」)。これ以後忠季が若狭という国名を苗字としたのは、時定に替わって国の中心に立つこととなった自らの立場に対する自負、あるいは自覚によるのかもしれない。
 正治元年(一一九九)正月の頼朝の死による頼家への代替りにあたっても、若狭忠季はこの年七月二日、頼家によって時定の郎従とその所領の百姓に対する支配を改めて認められたうえで、翌二年二月二日、遠敷・三方両郡内の荘園・公領の地頭に補任された(ヒ函二七六)。
 両郡の「惣地頭」ともいわれた忠季の所領は大飯郡の一部にも及んでおり、その若狭における勢力はまさしく圧倒的で、若狭の国人・百姓たちは、かつての時定とは違い、自らとかなり異質な東国人の地頭やその代官と立ち向かわなくてはならなくなったのである。
 そうした時代の推移に取り残され、稲庭時定は建仁二年(一二〇二)二月八日、西津荘で世を去った(「税所次第」)。
 この間、若狭では建久六年に、太政官厨家領として遠敷郡国富荘が立券され(資2 吉川半七氏所蔵文書一号)、越前でも建久元年に吉田郡河北荘が守覚法親王家領(仁和寺領)として確立し(資2 宮内庁書陵部 (その他)二号)、同六年に七条院(高倉後宮藤原殖子)の分国になると、国守藤原信定は同九年には橘行盛から六年前に譲与されていた今立郡真柄保を立券荘号して七条院領とし、自らの子孫に預所職を相伝することを認められている(資2 醍醐寺文書三号)。荘園・公領の分野はそれぞれに着々と確定されつつあり、おそらく越前においても若狭と同様、守護の設置と御家人の確定が同じころに行なわれていたのではないかと推定されるが、今のところ未詳とするほかない。



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