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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
     二 稲庭氏の没落と東国地頭の入部
      若狭国御家人交名の注進
 後白河の死後、そのあとを追って出家した近臣の若狭守範綱に替わり、若狭は大納言藤原実宗の知行国になったと推定され、国守には藤原保家が任ぜられた。一方、その死を待っていたように、建久三年(一一九二)七月十二日、頼朝は征夷大将軍となり、翌四年には御家人たちを率いて那須野・富士野で大規模な巻狩を行ない、名実ともに東国の「王権」であることを内外に示し、それを支える御家人制、王朝から与えられた諸国守護権にもとづく守護・地頭制を、制度的に確立させるべく本格的に動き始めた。
 頼朝は同七年、若狭に対して雑色足立新三郎清経を遣わし、「先々源平両家祗候輩」の交名(名簿)の注進を求め、六月に在庁中原氏・柿下(柿本)氏は連署して、大番催促に応ずべき三三人の国の住人の苗字・官途・仮名・実名を鎌倉に注進した(ホ函四)。若狭国御家人はこれによって初めて正式に確定したのであり、最有力の在庁稲庭権守中原時定を中心に、郷司・下司・公文などの職を保持する荘・郷・保・名の地名を苗字とした中原氏・惟宗氏・小槻氏・藤原氏・柿本氏などが、「時」「頼」「家」「清」「兼」などを通字とした実名を名乗りつつ、姻戚関係で網の目のように結ばれる若狭国の住人たちの独自な秩序は、ここに東国の「王権」―幕府によっていったんは公認されたかにみえた。
写真11 若狭国源平両家祇候輩交名案(ホ函四)

写真11 若狭国源平両家祇候輩交名案(ホ函四)

 実際この交名が二人の在庁によって注進された点からも知られるように、若狭の守護は未確定であり、また没官領の地頭に補任されていた遠敷郡津々見保の津々見忠季、大飯郡本郷の美作朝親、遠敷郡宮河・松永保の宮内大輔重頼らは、交名には載せられていない。これはあくまでも国の住人の交名であり、東国人の入り込む余地はそこにはなかったのである。



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