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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
    一 「鎌倉殿勧農使」の派遣
      東国王権と後白河法皇
 この間、瀬戸内海を押さえ、安徳を擁して一年半以上後白河の王朝に対抗していた平氏一門は、範頼・義経の率いる源氏の軍勢に追いつめられ、文治元年(一一八五)二月、壇の浦の海戦に敗れて、ついに海に没した。しかしこの戦いに功のあった義経は鎌倉の頼朝と対立し、後白河から頼朝追討の院宣を得て、同年十月に叔父行家とともに四国・九州に渡り、平氏と同じく瀬戸内海―西国を押さえて東国の頼朝に対抗しようとする。ところが、このとき義経に従っていた先の斎藤友実は庄四郎によって誅され、義経・行家も嵐のために渡海に失敗し、頼朝によって追われることとなった。
写真9 後白河法皇画像(「天子摂関御影」、部分)

写真9 後白河法皇画像
(「天子摂関御影」、部分)

 この後白河の決定的失敗をとらえた頼朝は、十一月、北条時政を京都に派遣し、義経・行家追捕の宣旨を得るとともに、それを実現するための条件として、すでに支配下に入っていた東海・東山・北陸道を除く畿内五か国をはじめ西国四道の諸国に、謀叛人跡の没収地の荘郷地頭を指揮する国地頭、荘郷惣追捕使の指揮権を掌握する国惣追捕使を設置することを王朝に認めさせた。
 こうして王朝国家の支配権を大きく割譲させ、後年の守護・地頭制への緒口を確実に開いた頼朝は、十二月、越前について、議奏公卿として先に推挙した内大臣藤原実定を知行国主としている(『吉記』同年十二月二十七日条)。
 しかし翌二年に入ると王朝側の反撃が始まり、三月には北条時政が七か国地頭職を辞退し、六月二十一日、頼朝が九州を除く西国三七か国においては院宣によって武士の濫行を停止されたいと王朝に申し入れ、これに応じた十月八日の太政官符で謀叛人跡以外の地頭職を停止し、加徴米徴収権・検断権・下地知行は認められないこととなった。注意すべきはこの三七か国のなかに、尾張・美濃・飛騨・越中以西の東海・東山・北陸道諸国が含まれている点で、幕府―東国の「王権」の統治権の及ぶ諸国はここで若干減少し、王朝の統治下にある西国諸国と明確に区別されたのであるが、北陸道に即してみると、頼朝の知行国となった越後と他の諸国とは東西に分かれる結果となった。
 六月十七日、越前の国務に対する北条時政の眼代越後介高成の妨げが、国主実定の訴えで停止されたのは(『吾妻鏡』同日条)、こうした西国に対する頼朝の譲歩の結果といえよう。ただこれは、時政が国惣追捕使の立場にあったとみられる朝宗と並んで、このときまでの一時期この国の国地頭だったことを示すものと思われる。九月十三日、最勝寺領丹生郡大蔵荘の地頭時政の代官平六時定・常陸房昌明による新儀無道が停止され(同 同日条)、これよりさき寿永三年、義仲滅亡後の大野郡牛原荘に頼朝の使と称して、時政が代官宗安を入部させたといわれているように(資1 「醍醐雑事記」巻一〇)、時政が越前に所領を確保したのは、こうした国地頭となったその立場と無関係ではあるまい。
 若狭においても文治三年八月八日、最勝寺の訴えにより、御家人原宗四郎行能の今重保に対する押領が排除され(『吾妻鏡』同日条)、翌四年九月三日、源頼政側近の宮内大輔重頼が遠敷郡松永保・宮河保の地頭として国衙の課役を非法なく勤仕すべきことが命ぜられているように(同 同日条)、王朝側の巻返しが進んでいた。
 これに対し頼朝は義経をかくまった罪を追求し、同五年七月、奥州藤原氏の泰衡を追討すべく大軍を動員するが、そのさいの北陸道大将軍は比企藤四郎能員と宇佐美平次実政であった。このときは上野の住人が動員され、越後から出羽に入ることになっているが、建久元年(一一九〇)正月、大河兼任を追討するために奥州に軍兵が遣わされたときの東山道大将軍となった能員は上野・信濃の御家人を率いており、この点から両国の守護ではなかったかと推定されている。
写真10 遠敷郡松永

写真10 遠敷郡松永

 朝宗でなく、その甥の能員がなぜ北陸道大将軍となったのか、その理由は定かでないが、翌二年六月二十二日、前摂政藤原基通家領の丹生郡鮎川荘に対する藤島三郎についての訴えに対し、頼朝がかつては朝宗に「北陸道方の事」を申し付けておいたが、いまは「守護人をも差置かず候なり」と請文のなかで述べており(同 同年六月二十三日条)、おそらく越中以西の諸国について、朝宗は文治二年からさほど遠からぬ時期に北陸道諸国の国惣追捕使―守護の地位を停められていたのではなかろうか。それゆえ、頼朝の知行国であった越後の奥州へ発向する軍勢は朝宗ではなく、この地と交通上深い結びつきをもつ信濃・上野の守護能員に率いられることとなったのであろう。
 このように、西国に対する支配について頼朝は譲歩・後退を重ねていたのであるが、奥州征服後に上洛した頼朝と建久元年に初めて会見した後白河は、翌二年に発した新制で「諸国守護」を頼朝が請け負うことを認める一方、荘園公領制・神人供御人制をさらにいっそう固め軌道にのせた。そして同三年には若狭では遠敷郡吉田荘・三宅荘、大飯郡和田荘、越前では坂井郡坂北荘をはじめとする長講堂領、志比荘を含む最勝光院領、さらに新熊野社領、高階栄子領、春日社領などの荘園について、起請や院庁下文などによって大小国役の停止などを定め、三月十三日、後白河は世を去ったのである。



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