北陸に独自な政権を樹立しようとする義仲の夢はここに潰え、ただちに東国の「王権」―鎌倉幕府の影響が北陸道諸国に及んでくる。頼朝が東海・東山両道に対して王朝から認められたのと同様の公権を義仲の追討後すぐに北陸道にも行使し、「鎌倉殿勧農使」として比企藤内朝宗を入部させたのである。 比企氏は武蔵国比企郡(埼玉県東松山市周辺)を所領とし苗字の地とする豪族で、朝宗自身については、妻が北条政子の「官女」、娘も頼朝に仕え、やがて北条義時に嫁すことになる頼朝の信任厚い御家人であった。「追討謀叛の間、土民なきが如し」といわれるような状況にあった北陸道諸国に対する「勧農」の権限を保持するとともに、国衙在庁の指揮権を掌握した朝宗は早くも二月、若狭にその影響を及ぼしている。同月三日、賀茂別雷社の社司は、平氏追討のために下向した「官兵」と「国中の武士」が、遠敷郡宮河荘・矢代浦に乱入して狼藉を働いたとし、院庁下文を「御使并大将軍」に下して「土民」を安堵してほしいと訴え、同月七日、これに応じて賀茂社充てに発せられた院庁牒は、「官使并使者」に対し狼藉停止・供祭物の運上を命じている(資1 弘文荘待賈鳥居大路文書)。同日付で遠江国比木荘(静岡県浜岡町)に関する狼藉を停止したこれとほとんど同文の院庁牒には、「大将軍」範頼・義経の率いる「官兵」が問題にされているのみで、「御使」「使者」の文言がみられないので(「賀茂別雷神社文書」)、これは「勧農使」比企朝宗をさすとしてまず間違いなかろう。とすると、朝宗は範頼・義経の軍勢とともに西上し、まず若狭に入ったことになる。そして、こうした荘園・公領に対する狼藉の停止が朝宗には期待されていたのであり、文覚が遠敷郡西津荘における百姓の安堵とその神護寺領としての保証を頼朝に求めたのに対し、頼朝は四月四日、神護寺充ての返書で「藤内朝宗ハこれよりおほせなとかふらぬひか(僻)事なとハすへからす」と強調し、「いなむらとかいふもの」の非法は停止すべきであると述べている(「神護寺文書」)。この「いなむら」は「稲庭」の誤伝とみることができるかもしれないので、もしそうならば若狭の有勢在庁稲庭時定がこのころ平氏の没官跡として西津荘を押さえており、頼朝は勧農使朝宗を通じてこれを抑制し、この荘を神護寺に安堵したことになろう。 |