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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
    一 「鎌倉殿勧農使」の派遣
      「鎌倉殿勧農使」比企氏の入部
 北陸に独自な政権を樹立しようとする義仲の夢はここに潰え、ただちに東国の「王権」―鎌倉幕府の影響が北陸道諸国に及んでくる。頼朝が東海・東山両道に対して王朝から認められたのと同様の公権を義仲の追討後すぐに北陸道にも行使し、「鎌倉殿勧農使」として比企藤内朝宗を入部させたのである。
 比企氏は武蔵国比企郡(埼玉県東松山市周辺)を所領とし苗字の地とする豪族で、朝宗自身については、妻が北条政子の「官女」、娘も頼朝に仕え、やがて北条義時に嫁すことになる頼朝の信任厚い御家人であった。「追討謀叛の間、土民なきが如し」といわれるような状況にあった北陸道諸国に対する「勧農」の権限を保持するとともに、国衙在庁の指揮権を掌握した朝宗は早くも二月、若狭にその影響を及ぼしている。同月三日、賀茂別雷社の社司は、平氏追討のために下向した「官兵」と「国中の武士」が、遠敷郡宮河荘・矢代浦に乱入して狼藉を働いたとし、院庁下文を「御使并大将軍」に下して「土民」を安堵してほしいと訴え、同月七日、これに応じて賀茂社充てに発せられた院庁牒は、「官使并使者」に対し狼藉停止・供祭物の運上を命じている(資1 弘文荘待賈鳥居大路文書)。同日付で遠江国比木荘(静岡県浜岡町)に関する狼藉を停止したこれとほとんど同文の院庁牒には、「大将軍」範頼・義経の率いる「官兵」が問題にされているのみで、「御使」「使者」の文言がみられないので(「賀茂別雷神社文書」)、これは「勧農使」比企朝宗をさすとしてまず間違いなかろう。とすると、朝宗は範頼・義経の軍勢とともに西上し、まず若狭に入ったことになる。そして、こうした荘園・公領に対する狼藉の停止が朝宗には期待されていたのであり、文覚が遠敷郡西津荘における百姓の安堵とその神護寺領としての保証を頼朝に求めたのに対し、頼朝は四月四日、神護寺充ての返書で「藤内朝宗ハこれよりおほせなとかふらぬひか(僻)事なとハすへからす」と強調し、「いなむらとかいふもの」の非法は停止すべきであると述べている(「神護寺文書」)。この「いなむら」は「稲庭」の誤伝とみることができるかもしれないので、もしそうならば若狭の有勢在庁稲庭時定がこのころ平氏の没官跡として西津荘を押さえており、頼朝は勧農使朝宗を通じてこれを抑制し、この荘を神護寺に安堵したことになろう。
写真8 遠敷郡矢代浦

写真8 遠敷郡矢代浦

  さらにこの年の四月、河和田荘の荘官らは、前述した義仲の従者斎藤友実の「濫妨」を受け継ぎ、「鎌倉殿勧農使」比企藤内の下知と号し、地頭を称する僧上座が荘内に乱入し荘務を張行したと訴え、五月に「源家の濫妨」と「上座の狼藉」を停止する後白河院庁下文が在庁官人らに充てて下されている(資1 仁和寺文書)。東国の頼朝の意志はこのように朝宗を通じて越前にも貫徹していたのであり、同じ五月、朝宗は加賀在庁との連署の形式で所領を加賀白山宮に寄進したと推定され(延慶本『平家物語』)、年紀は未詳であるが六月十四日、「比企藤内朝重」(朝宗の誤記か)の下文で越中国石黒荘弘瀬村(富山県福光町)が藤原定直に安堵された。能登・越後・佐渡についての徴証は残されていないが、後年北陸道の「守護人」といわれた点からみて、比企朝宗がこれらの諸国についても頼朝の使としてその権限を行使したことは間違いない。朝宗はこのような任務を遂行し、北陸道が東国の「王権」のもとに入ったことを明確にしたうえで、七月にはおそらく越後から信濃・上野・武蔵を経て鎌倉に帰ったものと思われる。
 こうした鎌倉殿勧農使の権限を背景に、朝宗は加賀国額田荘(石川県加賀市)・越中国般若野荘(富山県砺波市・高岡市)などを所領とし、越前でも先の河和田荘や吉田郡志比荘の所職を得ているが、若狭では、遠敷郡津々見保のみが平氏の没官領として朝宗の甥比企能員の妹を母とする島津忠久の同腹の弟右衛門次郎忠季に与えられたにとどまり、朝宗自身の所領は見出しえない。義仲に対してもその勢力の浸透を阻んだ稲庭時定をはじめ中原氏一門を中心とする若狭の在庁・国人は、このときも東国の影響の及ぶのを最小限にくいとめたかにみえる。
 一方、賀茂社・神護寺に続いて、元暦元年十一月に園城寺が頼朝に所領の寄進を求めたのに応じ、頼朝は平氏没官領の遠敷郡玉置領を、下司職については鎌倉から沙汰し付けるとの留保つきで同寺に寄進した(資1 「吾妻鏡」同年十二月一日条)。延暦寺もまたこのころ、同様の働きかけによって若狭に山門沙汰の保・名・寺を確保したものと思われる。



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