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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
    一 「鎌倉殿勧農使」の派遣
      鎌倉幕府の成立
 このような情勢のなかで九月二十日、義仲は西国の平氏を追討すべく山陽道に出陣するが、戦況は不利で、閏十月一日の備中国水島(岡山県倉敷市)での合戦に敗れ同月十五日に帰京した。しかしこの義仲不在の間に頼朝は恫喝をも交えつつ後白河に妥協を働きかけ、ついに王朝は十月十四日に宣旨を発し、東海・東山両道の荘園・公領の年貢を保証することを条件に、両道諸国の国衙在庁に対する指揮権を頼朝に与えた。頼朝はここに東海・東山道一九か国に及ぶ領域について、国司の権限を越える公権―統治権を王朝から授権されたのであるが、その代わりに、治承の元号を用いるのをやめて王朝の寿永の元号に切り換え、その体制内にあることを認めた。鎌倉幕府はふつうここで成立したとされており、限定つきながら東国の「王権」の存在が王朝によって公式に承認されたということもできよう。
 このとき頼朝は北陸道についても同様の権限を後白河に要求し、いったんはこれを認めた王朝側が義仲を憚って北陸道には宣旨を下さなかったといわれているが、義仲の本拠信濃は東山道の一国として頼朝の統治下に入ったこととなり、この宣旨に対する義仲の怒りは大きかった。しかも頼朝の派遣した軍勢は早くも東海・東山両道の西端の国、伊勢・近江に姿を現わしたのである。
写真7 源頼朝画像

写真7 源頼朝画像

  ここにいたって義仲は後白河を北陸道に拉致し、頼朝・平氏に対抗する政権の樹立を企図するが、諸国源氏の諸将はこれに従わず、ついに十一月十九日、義仲は後白河の居所法住寺殿を襲撃して後白河を捕らえ、その近臣たちを大量に解官するという挙にでた。越前守藤原信行はこの戦闘で討たれ、源政家に替わって義仲の与党である近江源氏の山本義経が若狭守となった(『吉記』同年十二月十日条)。こうして後白河から権力を奪取した義仲は北陸道諸国に対する支配を強化したかにみえるが、一方で与党であったはずの河合系の斎藤友実を解官している点からみて(『尊卑分脈』)、その基盤自体が分裂し、京都における義仲の立場は孤立・弱化していた。
 翌元暦元年(一一八四)に入ると、大義名分を得た頼朝の弟範頼・義経の率いる東国の軍勢は京都をめざして殺到した。宇治・勢多でこれを迎え撃った義仲は完敗を喫し、北陸に向かって敗走する途中、正月二十日に近江の粟津で討たれ、義仲に従った越前の疋田斎藤利平もここで討死した(同前)。



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