このような情勢のなかで九月二十日、義仲は西国の平氏を追討すべく山陽道に出陣するが、戦況は不利で、閏十月一日の備中国水島(岡山県倉敷市)での合戦に敗れ同月十五日に帰京した。しかしこの義仲不在の間に頼朝は恫喝をも交えつつ後白河に妥協を働きかけ、ついに王朝は十月十四日に宣旨を発し、東海・東山両道の荘園・公領の年貢を保証することを条件に、両道諸国の国衙在庁に対する指揮権を頼朝に与えた。頼朝はここに東海・東山道一九か国に及ぶ領域について、国司の権限を越える公権―統治権を王朝から授権されたのであるが、その代わりに、治承の元号を用いるのをやめて王朝の寿永の元号に切り換え、その体制内にあることを認めた。鎌倉幕府はふつうここで成立したとされており、限定つきながら東国の「王権」の存在が王朝によって公式に承認されたということもできよう。
このとき頼朝は北陸道についても同様の権限を後白河に要求し、いったんはこれを認めた王朝側が義仲を憚って北陸道には宣旨を下さなかったといわれているが、義仲の本拠信濃は東山道の一国として頼朝の統治下に入ったこととなり、この宣旨に対する義仲の怒りは大きかった。しかも頼朝の派遣した軍勢は早くも東海・東山両道の西端の国、伊勢・近江に姿を現わしたのである。 |