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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
    一 「鎌倉殿勧農使」の派遣
      木曾義仲の入京
 礪波山の合戦に勝利した木曾義仲は、寿永二年(一一八三)六月十日ごろには越前の国府(武生市)に進出し、近江から京都に入るにあたっての軍議を開いた。そこで山門の衆徒に牒状を進めて合力を訴えたのち(資1 「平家物語」巻七)、義仲の軍勢は近江に入って湖東を進撃し、七月二十二日には東坂本に着き、これに味方した大衆とともに比叡山に登る勢いを示し(『吉記』同日条)、その一部はすでに六波羅あたりに入ったと風聞されるほどになっていた。一方、大和に入った源行家は、吉野衆徒の与力を得て京都に向って北上しており、多田行綱ら摂津・河内の源氏も、河尻(大阪府豊能町)で船を差し押さえる動きをみせ、京都の平氏は諸方の源氏の軍勢によって包囲されるにいたった。
 平氏がともあれそれに対処しようとしている間に、後白河法皇は京都を脱出して鞍馬から比叡山に入り、窮地に立った平氏一門は七月二十五日、幼帝安徳を擁して京都を離れ、その本来の基盤である西国に赴いて再起を図ることとなったのである。これに代わって、義仲と行家は二十八日に南北から京都に入り、近江・美濃・尾張・甲斐・信濃の源氏に支えられ、京都の守護にあたることとなった。
 しかし西国で反撃の機をうかがう平氏、鎌倉にあって東国に独自の「国家」を樹立し、なお治承の元号を用い続けつつ上洛の時期を狙う頼朝の間にあって、競合する諸国の源氏を背景にする義仲の立場は決して強いものではなかった。
 八月十日、義仲は左馬頭に任ぜられ、越後守を兼ねたが、東国の頼朝との摩擦を避けて同月十六日に伊予守に遷任され、平氏を押さえるべく淀川から瀬戸内海を支配する志向を明らかにするとともに、このころ加賀に入っていた以仁王の子北陸宮を天皇とすることによって、自らの立場を固めようとした。しかし後白河や公卿たちはこれを拒否し、二十日には高倉院の第四子を神器のないままに践祚させ、西海にある安徳に対し、京都に新たな天皇後鳥羽が立つこととなった。
写真6 今立郡河和田荘

写真6 今立郡河和田荘

 このころ法金剛院領の今立郡河和田荘では、義仲に従う河合系斎藤氏の検非違使友実が、地頭下司と称して預所女房美濃局から荘務を奪ったとして訴えられ、九月二十七日の後白河院庁下文によって乱妨を停められている(資1 仁和寺文書)。このように越前には義仲の力が強く及んでいたことが知られるが、但馬など山陰道東部にも義仲に呼応する動きがあり、九条兼実は九月三日、北陸・山陰両道が義仲の押領下に置かれ、国守の吏務も不可能の状況にあるとその日記に記している(資1 「玉葉」同日条)。ただ北陸道西端の若狭については、後白河の近臣源政家が国守となっており、義仲の勢力が及んでいたかどうかは明らかでない。



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