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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    四 北陸道合戦
      燧城合戦
 翌寿永二年三月になると、平氏の総力を挙げた義仲追討軍の編成が始まり、四月には四万とも称する大軍が京都を進発、東西二手に別れて琵琶湖岸を北上した(資1 「源平盛衰記」倶二八)。主力の西軍は、敦賀を経て木ノ芽峠越えの道、別動隊の東軍は栃ノ木峠越え(能美越え)の山道を進んだ。両道は南条郡の今庄町で合して越前北部に向かう。この地はまた水津浦からの道も合流して、最大の交通の要衝である(図4)。
 これに対し、越前の反平氏勢力は同地の藤倉山東端に燧城を構え、前面の能美川(日野川上流)と新道川(鹿蒜川)をせき止めて追討軍の渡河を防いだ。守備の主力は、稲津実澄・平泉寺の長吏斉命らや、林六郎光明・富樫入道仏誓・斎藤太らなど、越前・加賀の利仁流藤原氏勢力である。しかし主将格の斉命が平氏に寝返ったため、四月二十七日城は落ちた。 写真5 燧城からみた日野川流域

写真5 燧城からみた日野川流域

 斉命と稲津実澄はもともと通盛軍に属しており、養和元年九月になって急に反乱軍に同調した。斉命のこの再度の心変わりを、長門本『平家物語』では平氏の侍大将越中次郎兵衛盛継と外戚の関係で親しかったからとしているが、真偽は明らかでない。河合系の坂南五郎成家などは燧城で討死しているが(『尊卑分脈』)、斎藤氏の少なからぬ人びとが、平氏と反平氏の間を揺れながら内乱を乗り切ろうとしていたのであろう。
 以後、平氏軍は斉命の案内で越前を席巻し、ついで加賀と能登の南半部を奪還し、義仲の前進部隊を撃破してついに加賀・越中国境に迫った。だが五月十一日礪波山(倶利加羅峠)の合戦に大敗し、さらに六月一日加賀国篠原(石川県加賀市)において壊滅的な打撃を受ける。
 木曾義仲は礪波山の合戦後、気比社・平泉寺などに戦勝祈願の願文を書き、前者には敦賀郡葉原荘、後者には吉田郡藤島七郷を寄進したという(資1 「平家物語」)。建暦二年(一二一二)九月の「越前気比宮領政所作田所当米等注進状」には葉原荘を気比社領としており(『越前気比宮社伝旧記』)、これらの約束は果たされたと思われる。
 篠原では「敵軍わずかに五千騎に及ばずと云々、(平氏の)かの三人の郎等等、大将軍等、権勢を相争ふの間、此の敗有りと云々」と、内紛が敗因と伝える(資1 「玉葉」寿永二年六月五日条)。斎藤実盛が髪を染め若作りをして討死したというのもこのときである。逆に河合系の藤島右衛門尉助延は義仲方として戦死したらしい。他に右兵衛尉成助、木田次郎実重とその子太郎実親らも、一連の戦闘で平家方として討ち取られている(『尊卑分脈』)。
 北陸の敗報は六月四日京都に届き、平家は意気阻喪した。
 



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