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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    四 北陸道合戦
      対峙から撤退へ
 『吾妻鏡』は、同じころ木曾義仲の先陣として信濃武士である根井太郎行親が敦賀郡の水津(杉津)まで進出し、通盛との戦いを指揮したと伝える(資1 「吾妻鏡」養和元年九月四日条)。北陸道南西部の反乱勢力に義仲の影響が及び始めるのは翌養和二年(一一八二)二月の時点であり、行親の行動は事実とは認めがたいが、ともあれ平家は敦賀郡を確保するのがやっとで、すでに木ノ芽峠を越えて反転北上する力を失っていた。増援部隊の派遣や美濃方面の平重衡軍の迂回なども計画されたが、兵力の不足と冬期の困難を理由に延引し、通盛自身も十一月中旬京都に帰還した。あとは一部の軍が敦賀に越年し、若狭に経正がとどまるばかりである(資1 「吾妻鏡」養和元年十一月二十一日条)。
 寿永元年(一一八二)二月下旬ごろ、平教盛を追討使とする再度の出兵が検討されたけれど、深刻な飢饉や疫病流行のため追討軍の編成も実現しない。三月には、敦賀に踏みとどまっていた前筑後守源重貞は、「謀反の源氏等」すなわち義仲与党が越前に入ったと京都に報ずる(資1 「吉記」同年三月二十一日条)。越前国内では反乱の武士と白山宮越前馬場を構成する平泉寺・豊原寺およびその堂衆・神人集団の連合が進み、大きな軍事集団が形成されつつあった。これが、義仲を盟主に戴く方向に向かったのである。
 九月十五日になると、ついに平家全軍は京都に引き上げた。すでに寒気が迫り在国が難儀であることを口実にしているが、本音は木曾義仲の武略を恐れてのこととみえている(資1 「吾妻鏡」同日条)。かくして敦賀郡もほぼ完全に木曾義仲に味方する軍勢によって占められ、寿永元年が暮れた。



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