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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    四 北陸道合戦
      越前での戦闘
 近江の反平氏勢力の蜂起は平知盛らの奮闘によりようやく鎮圧されるが、十二月二十二日には越前でおこった蜂起をおさめるため、平維盛が三〇騎を率いて越前に向かった(資1 「山槐記」同日条)。
 この間、諸方の相つぐ蜂起に窮地に立った平氏は、後白河院に院政の復活を要請した。翌五年(養和元年)正月には平宗盛を五畿内と伊賀・伊勢・近江・丹波諸国の惣官に任じ、有力家人をそれぞれの国の諸荘園総下司となして態勢の立直しを図った。しかし、閏二月には一門の総帥清盛が病死する。西国を中心とする折からの飢饉で兵粮米の欠乏がはなはだしくなり、三月尾張墨俣(岐阜県墨俣町)の合戦で平氏が快勝すると、源平主力軍の行動は停滞した。
 全国で戦線が膠着しても北陸道方面だけは別で、年号が養和と変わった七月、越中・加賀の在地勢力が「東国」(頼朝・義仲らの勢力)に同意し、その影響が越前に現われ始めた。同月下旬には能登・加賀などで一国規模の反乱がおこり目代が放逐され、平氏の国務知行権が完全に否定されている。
 これらの事態に対処するため、八月十五日に若狭へ国守経正が、翌十六日には越前に通盛が、それぞれ追討使として出張った。九月一日、通盛率いる平家軍は越前国府(武生市)に入ったが、国中に「なお命に従わざる族あり」という状況があり、加賀住人の集団も大野郡・坂井郡まで進出して行く手を阻む。通盛は決戦を前に増援部隊の急派を求めざるをえない。九月六日、加賀境で合戦が始まると、越前斎藤氏の稲津新介実澄や前従儀師で白山平泉寺長吏の斉命(最明)らが寝返り、通盛は主だった郎従八〇余人を討たれて大敗した。その結果、無勢の通盛軍は越前国府を確保しきれず、敦賀へと敗走する(資1 「玉葉」養和元年九月十日条、「吉記」同日条)。
図4 近江と越前を結ぶ中世の交通路

図4 近江と越前を結ぶ中世の交通路




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