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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    四 北陸道合戦
      有勢在庁の反乱
 クーデターによって政権を掌握したことは、国家支配層内部における平氏の孤立を深刻なものとした。また知行国・荘園を大量に集積し、それを政治的・経済的基盤としたことは、国衙領・荘園の内部に醸し出されつつあった社会的・政治的な諸矛盾を一手に引き受けることを意味していた。平氏と地方社会との対立は深まらざるをえない。
 治承四年五月、以仁王・源頼政らが平氏追討の口火を切って挙兵すると、反乱(治承・寿永の内乱)はたちまち全国に広がった。内乱は源平両氏あるいは平氏と反平氏勢力の覇権争いにとどまらず、広く平氏によって代表される国守・荘園領主勢力と在庁官人・郡郷司・下司ら在地領主層を先頭とする国衙・荘園の住人との対立、あるいは支配階級の集住地としての京都と収奪の対象たる地方農漁山村の抗争を底流に含むものであった。
 平氏軍が富士川で完敗後の十一月下旬には、関東の動きに東海・東山道の武士が呼応し、北陸道の武士も加わった。これに連動して三井寺の衆徒や新羅源氏(源頼義三男義光を祖とする源氏)などが近江を制圧し、琵琶湖東西の船をことごとく東岸に着け、北陸道からの運上物をすべて差し押さえてしまった。国衙領・荘園を基礎とする社会体制にあっては、「京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼める」から、「絶えて上るものなければ」結果は飢えと欠乏以外にありえない(『方丈記』)。
 京都では、十二月に近江・美濃方面に向けて追討軍が派遣されるという噂が流れたが、そのかたわらで「若狭国経盛卿、吏務を掌るの有勢の在庁、近州に与力す」という報が届くありさまである(資1 「玉葉」同年十一月二十八日条)。この「若狭国の有勢の在庁」こそ、稲庭権守時定であろう。太良保公文であった丹生出羽房雲厳も、このとき以来稲庭時定に従って反平氏方に付き、のちに幕府御家人の身分を獲得するにいたった一人である。



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