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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    一 越前・若狭と平氏
      平家没官領
 若狭では平家が山門に請け負う荘園の多かったことを述べたが、明確な平家領ということになると意外にわからない。越前でも、足羽郡足羽御厨・吉田郡藤島荘・丹生郡大蔵荘が知られるに過ぎない。多年にわたり知行国として確保している以上、改めて荘園を立てる必要がなかったからかもしれない。
 足羽御厨は承安元年(一一七一)の立荘で(「伊勢大神宮神領注文」)、源平争乱後に平家没官領となり、他の一九か所の荘園とともに一条能保の妻(源頼朝の妹)に与えられた(『吾妻鏡』建久三年十二月十四日条)。藤島荘は平家没官領として頼朝が領知していたが、白山権現の神膳に充てるため大野郡平泉寺に寄進された。本家に延暦寺を戴くこの荘園は、平氏段階ではまだ多くの未開地を抱えていたらしい(「門葉記」二など)。大蔵荘は、嘉応元年十一月日の権大僧都某解によるともと平清盛領で、永万年間(一一六五〜六六)のころ摂津国山田荘(神戸市)との交換で京都最勝寺に寄進され、調庸租税以下臨時雑事が免除され不輸の地となった(資1 東大寺文書)。若狭では、遠敷郡玉置郷・津々見保が挙げられる。玉置郷は、元暦元年(一一八四)平家没官領として頼朝より園城寺に寄進されている(資1 「吾妻鏡」同年十二月一日条)。津々見保は島津(津々見・若狭)忠季に与えられ、のち「関東御一円御領」といわれている(ユ函一二)。



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