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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    一 越前・若狭と平氏
      荘園制の展開と平氏
 越前・若狭においては、全国共通の傾向とともに、特に後白河院政期になって荘園が激増していることが明らかとなった。これは平氏期になってと言い換えることができる。そしてこれらは、御願寺領などを含む広義の王家(天皇家)領、ついで山門(延暦寺)系の所領を中心としている。このほか例えば若狭の大田文で「山門沙汰」「園城寺沙汰」などと分類されている一四か所、面積にして二九九一町一五二歩、全体面積に占める比率で二一・四パーセントに達する荘・保は、もともと平家時代に、経盛家の国守が延暦寺・園城寺などに対して請け負っていた所領らしい。
 後白河院は王家(天皇家)の家長として厖大な家領荘園を統轄していた。先に述べたように、平家は後白河院と政治連合を形成しており、他方では延暦寺勢力と同盟関係を維持せんと苦心していた。これらのことが、越前・若狭において王家や山門が荘園を立てようとしたとき、それらを平氏が容認・後押しする背景だったのだろう。それ以前でも、例えば牛原荘で、施入時の荒地二〇〇余町が国衙によって縮小されたが、これを立荘時の広さまで回復させたのは国守忠盛であった(資1 「醍醐雑事記」巻一二)。同荘は白河院の中宮賢子のために京都醍醐寺内に建てられた円光院の荘園である(二章四節五参照)。
 荘園の激増(国衙領の激減)は、中央―地方間に伏在したさまざまな政治的・社会的な矛盾・葛藤を増幅させるが、これらは院と平氏の協調による支配諸秩序の相対的安定によって辛くも激発を抑止されていた。
 なお山門領に関係して、北陸道の各地で日吉神人の活躍が目につく。保延二年(一一三六)の史料によると、大津に活動の基礎を置くこれら日吉神人は、日吉社が収納した神物である上分米(年貢米)を預かり、諸国で高利を取って貸し付けていた。借用者は公卿をはじめ諸国の受領、中央官衙の官人層、諸国の武士や荘園の住人、田堵(有力農民)層、京都の四条町の女商人にいたる広い範囲に及んでおり、「越前国木田御荘住人検校」もその一人である(資1 壬生家文書)。この場合、借米の返済が不能になれば抵当の田地が流れ、それが神人を介して本所である山門の所領・荘園化する事態が生じる。越前・若狭の山門領でも、そのようにして形成されたものが少なくなかったに違いない。
 大津に本拠を置く大津神人のほか、北陸道諸国に在国する日吉神人もいた。彼らは海辺の津・泊・浦・浜に分布し、日本海海運ならびに琵琶湖・北陸間の交通路を担う廻船人たちであろうといわれている。遠隔地所領支配としての荘園制が円滑に機能するためには、不可欠の存在である。忠盛のとき、越前敦賀郡で殺害事件をおこした日吉神人も右のいずれかであろう。



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