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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    一 越前・若狭と平氏
      荘園の叢生
 今日の研究では、荘園が本格的に形成されるのは十二世紀から十三世紀前半の時期、特に鳥羽院政期以降とされている。それを越前・若狭で確かめてみよう。
 若狭の場合、一国規模の荘園・国衙領の状態を知ることのできる「若狭国惣田数帳」(大田文)の案文が残っている(ユ函一二)。作成は文永二年(一二六五)十一月だが、実際の記載内容は嘉禎二年(一二三六)から翌三年にかけての一国規模の検注(土地調査)によって確定されたものを踏襲している。全体で四四か所、一万四〇三四町三四一歩の荘・保の内訳を検討してみると、十一世紀までに成立した荘園は面積もごく小さく、国衙から離れた所に散在し、一国の土地制度としては低い比重にとどまる。十二世紀に入るころから荘・保の急激な増大が始まり、後白河院政期、特に平経盛の知行国主時代に顕著な増加をみせた。そのなかで、旧来の郷や新たに開発された郷がそのまま相伝の私領になったり、官符・官宣旨によって立券荘号を遂げて荘園となり、あるものは中央の官司や権門など特定の対象にその年貢を充てる便補保となっていったことがわかる。
 越前については大田文のような便利な史料がないけれど、各種史料にみえる二〇〇以上の郡郷荘保のうち、全体の六割強が平安から鎌倉初期にかけて初見する荘園である。しかも白河院政期以前のものは、足羽郡の太田荘、大野郡の牛原荘、今立郡の方上荘のわずか三か荘に過ぎない。また、初見時期を比較すると、白河・鳥羽院政期対後白河院政期では一対二となって、若狭とほぼ同様の傾向であることがわかる(本章四節一・三参照)。



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