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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    一 越前・若狭と平氏
      保元・平治の乱後
 保元・平治の乱を経て平氏の台頭が著しくなると、平氏と越前・若狭の関係はいよいよ密になった。越前の場合、藤原季能が国守を去ってから治承三年(一一七九)月まで、平基盛・保盛・資盛・通盛と平氏の国守が続いた。若狭でも隆信の次に藤原重家、ついで平経盛・経光・敦盛・師盛と続いた。基盛は清盛(忠盛長男)の次男、保盛は清盛の弟頼盛(忠盛五男)の子、資盛は清盛の嫡男重盛の次男、通盛が清盛の弟教盛(忠盛四男)の子、経盛が清盛の弟(忠盛三男)、経光が経盛の猶子、敦盛が経盛の子、師盛が重盛の子である。

表2 北陸・山陰の平氏知行国の国主と国守

表2 北陸・山陰の平氏知行国の国主と国守

 しかも、彼らの背後にはそれぞれ一門の知行国主がひかえていた。越前では長寛元年から仁安元年(一一六三〜六六)の頼盛(国守保盛)、仁安元年から治承三年(一一六六〜七九)までの重盛(国守資盛・通盛)である。若狭では、嘉応二年(一一七〇)以降一貫して経盛が知行国主の立場にあった。そして安元から治承年間になると、さらに加賀・能登・丹後という山陰・北陸の諸国が平氏知行国になってくる。加賀は清盛の義弟平親宗、能は教盛、丹後は重盛という分担である。これらはいずれも上に院分を戴かない点で、それ以前のものとは区別される。平氏が上流貴族層に進出したことの結果である。
 仁安二年以後、平氏は後白河院と提携し、目下の同盟者として国家権力を分有していたと考えられるが、その最終段階では、越前・丹後を重盛家、若狭を経盛家、能登は教盛家と、固定的・独占的に保持していたのである。そのうえさらに、治承元年から越前では教盛家の通盛、能登では重盛家の忠房、また治承三年には若狭に重盛家の師盛、丹後では経盛家の経正と、一門の他家の若者をそれぞれ自家知行国の名目的な国守に起用することが始まっていた(表2)。知行国の固定と国守のいわば「一門たらいまわし体制」である。これは、特定家が長期にわたって一国の国守を独占することへの非難を回避するために採られた方式であっただろうが、それだけにこの地域を、他の政治勢力の容喙を許さない、平家の排他的な管理地帯にしようとする意図がみえている。



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