しかも、彼らの背後にはそれぞれ一門の知行国主がひかえていた。越前では長寛元年から仁安元年(一一六三〜六六)の頼盛(国守保盛)、仁安元年から治承三年(一一六六〜七九)までの重盛(国守資盛・通盛)である。若狭では、嘉応二年(一一七〇)以降一貫して経盛が知行国主の立場にあった。そして安元から治承年間になると、さらに加賀・能登・丹後という山陰・北陸の諸国が平氏知行国になってくる。加賀は清盛の義弟平親宗、能は教盛、丹後は重盛という分担である。これらはいずれも上に院分を戴かない点で、それ以前のものとは区別される。平氏が上流貴族層に進出したことの結果である。
仁安二年以後、平氏は後白河院と提携し、目下の同盟者として国家権力を分有していたと考えられるが、その最終段階では、越前・丹後を重盛家、若狭を経盛家、能登は教盛家と、固定的・独占的に保持していたのである。そのうえさらに、治承元年から越前では教盛家の通盛、能登では重盛家の忠房、また治承三年には若狭に重盛家の師盛、丹後では経盛家の経正と、一門の他家の若者をそれぞれ自家知行国の名目的な国守に起用することが始まっていた(表2)。知行国の固定と国守のいわば「一門たらいまわし体制」である。これは、特定家が長期にわたって一国の国守を独占することへの非難を回避するために採られた方式であっただろうが、それだけにこの地域を、他の政治勢力の容喙を許さない、平家の排他的な管理地帯にしようとする意図がみえている。 |